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彼方で
—別れは、いつも突然にやってくる。胸に秘めた思いを正直に伝えられたら、どれほど幸運だろう。—
花畑に燦々と降り注ぐ陽光が眩しい正午、サラサラと鳴る風が二人を包む。車椅子に乗った老人は、車椅子を押す妻の存在を背後に感じて、言いようのない幸福の中微睡んでいた。まぶたが重くなり、頭がなんども上下に振れる。その度妻は肝を冷やし夫に声を掛けるのだった。
「まだ生きてますよね?」
「ちょっと眠っとっただけじゃい。そんなに心配するんじゃない」夫はやや面倒くさそうに言う。
妻は夫の見えない背後で微笑み、そうですか、と呟く。
「小川が気持ち良いですね」妻は隣にしゃがむと目の前の小川を指差して言う。小川にかかるアーチ状の小さな橋にゆらゆらと反射光が浮かんでいる。
「ここは天国みたいじゃのう。花畑があって、川が流れておって…」
「あら?もうお迎えが来たんですか?」
「馬鹿言うな。まだまだピンピンしとるわい」
「ふふっ。そうですね」妻が上品に笑うと、照れ臭そうに夫は顔を背けた。
暖かい日差しが背後の病棟に隠れるまで二人は公園内を散歩しながら笑いあっていた。白い建物が橙色に染まる頃、夫が意を決したように妻に語りかける。
「すまんのう。儂がこんなになってしもうて」
「何を今更。ボケましたか?」妻はからかうように言う。
「おや?人違いですかな?私の妻はもっとべっぴんだったはずですが」
「そう言うあなたこそ。私の夫はもっと格好良くて、こんなボケ老人と見間違うはずもないんですがね」
「お互い、老けたな」
「ええ。とっても」
夫が振り返って妻の顔を見つめる。その表情はまるで縋るようで、妻は言葉に詰まって何も言えなくなる。ここ最近、急激に体が弱ってきているのに気がつき、いやでも別れを意識してしまう。刻々と迫る最期の時が、今この瞬間を濃密にする。二人が「片割れ」になった時、世界はどんな風に見えるのか考える。しかしどんなに頭をひねっても、その景色はまるで前人未到のように想像も及ばない。
「今まで、ありがとう。感謝しとるよ」
夫が急に畏まるのに、妻はつい身構えてしまう。そんな劇的なことは起こらない、そう頭ではわかっていても、まるでこれが最期の言葉のように聞こえてしまう。
「いえいえ、私の方こそ」
妻は何となく答えてしまう自分が情けなく、唇を強く噛みしめる。
「これで、いつ死んでも悔いは無いわい」夫がニカっと笑う。
「ええ。」妻は痛み出す胸を押さえて、やっとの事で声を絞り出す。
「大丈夫か?」
「何とも無いですよ。それより、ほら。綺麗な夕焼けですね」
二人は歩くうちにいつの間にか病棟の裏手に回っていた。
「おお見事じゃわい」
青と赫に染められる空の境界は曖昧で、まるでこの世の景色で無いようにも思える。次第に深く混じり合い滲んでいく空がどこまでも遠く、相反して二人の距離の近さを痛感する。この広い世界で、手を握った距離はいかに密か。妻の手はいつの間にか、隣の夫の手のひらに重なっていた。夕日のような暖かさが二人の境界を溶かす。まるで二人で一人のような人生だった。そうどちらともなく呟いて、間も無く訪れる夜を冷ややかさが二人をより濃密に結びつけるのを待った。
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