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部屋に入ると、ひな子は一目散にコタツの中へと潜り込んだ。コタツ布団を鼻の下まで持ち上げて、すっぽりとくるまっている。
前回ひな子がこの部屋に来たのはつい一昨日のことだ。
彼女が卒業するまではちゃんと「教師」でいようと決心したばかりだというのに……。まさかこんなにもすぐに、また彼女を連れ込むことになるなんて。
火神の胸が罪悪感で疼く。
ひな子の前にコーヒーの入ったマグカップを置くと、火神はコタツ机を挟んだ向かい側に腰を下ろして胡座をかいた。コタツの中に脚を入れることはしないで、慎重にひな子との距離を取った。
そんな火神の思惑に気づいているのか、いないのか……ひな子は目の前に置かれたカップに手をつけないまま、湯気の立った黒い液面をじっと見つめている。
「……羽澄。何があった?」
火神は自分のために淹れた濃いめのコーヒーをひとくち飲み込んでから、できるかぎりの優しい声色で尋ねた。
「火神先生と付き合ってるのか……って、聞かれました」
「……なんて答えたんだ?」
「そんなわけありません、って答えました」
そうだ。その通りだ。それ以外に答えようがない。
「写真は?」
「え?」
「写真は見せられなかったか?」
「はい」
なんのことかわからない、といったように、ひな子がかすかに首をかしげた。
その反応から、ひな子があの写真を目にしていないことを確信して、火神は安堵する。
いくら自分の姿とはいえ、服をはだけさせて胸を揉みしだかれる痴態など、若い女の子が見せられて気持ちの良いものではないだろう。
「苦い……」
コーヒーに手を付けたひな子がぼそっと呟いた。
「先生の連絡先も知らないし、学校じゃ話せないし、ここに来るしかないと思ったんですけど……」
コタツ布団に顔を埋め、身体を縮こまらせたひな子が、ぽつぽつと口を開く。
「……私が先生の家にいるのを誰かに見られたら、ますます先生の立場が悪くなるのに……私、ほんとにバカだ。すみません……」
消え入りそうな声で告げたひな子の頭ががくりと項垂れる。耳にかかっていた真っ黒な髪がハラリと垂れた。
「心配するな。お前は今まで通り、受験のことだけ考えていればいい。……俺が辞めれば済むことだからな」
さりげなく言ったつもりだったが、ひな子が聞き逃すわけはなかった。俯いていた顔をガバッと上げて、正面に座る火神の顔を凝視する。
「そんな……! どうして先生が辞めなきゃいけないんですか!?」
「当然だろ。生徒に手を出したんだから」
「っ……! でも、私も、私だって……」
ひな子が机に手をついて、大きく身を乗り出した。
「私、もう十八歳です……誕生日、過ぎてるから……だから犯罪にはならないって、教頭先生も言って……」
詰め寄るひな子の目に、じわじわと涙が浮かんでいく。
「そういう問題じゃない。お前の歳は関係ないんだ。問題なのは、俺が『教師』で、お前が『生徒』ということだ」
火神はひな子の言葉を遮って、小さな子供に教え諭すようにゆっくりと落ち着いた口調で告げた。
「ごめんなさい……私が、先生を巻き込んだから……」
「なんで羽澄が謝るんだ? お前は悪くないだろ」
「でも、私が……私が、関係のない先生を巻き込んだから……あの夏の日に」
ひな子の身体がガクガクと震えていた。
瞬きをした拍子に、溜まっていた涙が大粒の雫となってポタリと零れた。
室内が寒々とした沈黙に包まれる。
いつのまにかコーヒーの湯気が消えていた。
この部屋はなかなか温まらない。
ふと、ひな子の啜り泣く音に鈍いノイズが混ざった。
ひな子のブレザーのポケットの中でスマホが光っている。
「……こんな時間だもんな、親御さんが心配してるのかもしれない。そろそろ帰ったほうがいい。送っていくから」
腕時計に目を落とした火神が腰を上げる。
火神に促されるようにしてスマホを確認したひな子が、小さく悲鳴を上げた。
「ひっ……!」
「どうした? 羽澄」
大きく開かれた瞳が、ウロウロと焦点をなくして揺れている。
「なんで……なんで、あの男が、こんな……」
放心したようにブツブツと何事かを呟くひな子。
「おい、羽澄! 大丈夫か……!?」
明らかにおかしいひな子の様子に、火神は慌てて彼女の肩を掴んだ。
「見せてみろ」
火神はひな子の手から強引にスマホを奪うと、その画面に目を落とした。
「これは……」
そこに映し出された画像に、火神が顔色を失う。
今日の放課後、火神が教頭から見せられたあの写真だった。
「なんで、あいつがこれを……?」
送り主の名前を見て不審そうに呟いた火神が、思いついたように息を呑む。
「くそっ、真山か……!」
「どうしよう、先生まで……」
憤る火神の横で、両腕で自分を抱え込んだひな子がガタガタと震えている。
「羽澄……?」
火神が心配そうにひな子の顔を覗きこむと、虚空を見つめる彼女の目からボロボロと涙が噴き出していた。
「……っ!? 羽澄、落ち着け。大丈夫だから」
何が原因で何が大丈夫なのか自分でもさっぱりわからなかったが、火神は「大丈夫、大丈夫」と繰り返して、ひな子の背中を撫でた。
「あたたかい」
火神に背中を撫でられながら、ひな子が呟いた。
「…………せんせい、」
ひな子が自分の額をぴたりと火神の胸につけた。そのまま火神の背中へ腕を回すと、シャツを握りしめてしがみつくように抱き着いた。
火神は無言でひな子の背中を撫でつづける。
ふたりを取り巻く周囲の温度が上がる。
「せんせい、……たすけて」
それは目の前にいる火神の耳にだけようやく届くくらいの微かな声だった。
「羽澄……。やっと、言ってくれる気になったんだな」
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