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放課後の化学室で……
*****
「ひな子、今日練習来ないか?」
「龍ちゃん」
ひな子が声のした方に顔を向けると、廊下に面した窓から身を乗り出した龍一郎が満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。いかにも健康そうな日に焼けた肌に、白い歯がよく映えている。
「水島くん、今日もお迎え? 相変わらず仲良しだねぇ」
優奈がニヤニヤと笑いながら、ひな子と龍一郎の顔を見比べている。
「もう、からかわないでよ。……そんなんじゃないんだから」
水島龍一郎はひな子の幼馴染だ。家が近所で幼稚園から高校までずっと一緒の腐れ縁。
優奈はひな子と龍一郎が恋人同士だと勘違いしているみたいだけど、そんなんじゃない。そんな関係ではないのだ。
――そんなんだったら、いいんだけど……。
ひな子は心の中で呟いた。
優奈の見立ては間違っていない。
ひな子はずっと龍一郎のことが好きだった。
大したセンスもない水泳を十年以上続けてきたのも、龍一郎の近くにいたかったからだ。
県大会入賞が精一杯のひな子と違って、龍一郎は一年生の頃からインターハイに出場するくらい有望な選手で、すでに大学もスポーツ推薦で内定している。
「私はいいよ。もう引退したし」
苦笑いを浮かべながら、ひな子が断ると、
「えぇ~……いいじゃん、ちょっとくらい」
龍一郎が拗ねたように唇をとがらせた。こういったところは子供の頃とちっとも変わらない。身体だけ見れば、そこら辺の大人の男の人よりもよっぽど筋肉質で立派な体格をしているというのに……。
だけどひな子は、龍一郎のこうした無邪気で子供っぽい仕草が大好きだった。ずっと変わらないでいてほしかった。
「今日は脇田さんが来て練習見てくれるんだよ。だから、ひな子も行こうぜ!」
脇田さんというのは水泳部のOBだ。今はそうでもないけど、数年前までは世界選手権の日本代表候補にもなるくらいのすごい選手だった。
「いいって、私は……。あんたと違って、勉強しないといけないんだからね」
突き放すように言って教室を後にするひな子を、龍一郎が追いかけてくる。
「待てよ! なぁ、行こうぜ一緒に。なぁなぁ、ひな子ぉ~」
ひな子に付きまといながら、甘えた声を出す龍一郎。
――もう、ズルいなぁ……。
龍一郎はこうして甘えてみせれば、最後にはひな子が折れるものだとわかっている。
実際、ひな子は龍一郎に甘えられると弱い。何でも言うことを聞いてしまう。
ひな子が困って足を止めると、龍一郎も彼女に張り付くようにぴたっと側に身を寄せた。
「お。ひな子、行く気になった?」
嬉しそうな声を上げると、ポニーテールに束ねたひな子の髪の毛をくるくると指に巻きつけて遊びだした。
「……なんか、いい匂いするな。ひな子の髪って」
「ちょっ……匂い嗅がないで!」
髪の毛に神経は通ってないはずなのに。
龍一郎の触れた髪の毛の先から電流が走ったみたいに……顔が、熱い。
「ははは、ひな子、真っ赤になってる」
「!!」
龍一郎に指摘されて、ひな子は慌てて顔を両手で覆った。
「あ。真山先生♪」
ひな子があたふたと赤面している横で、龍一郎の浮かれた声がした。ひな子が顔を上げると、眼前に一組の男女が立っている。
英語の真山先生と、化学の火神先生。
真山先生は昨年教師になったばかりの若い女の先生だ。すらっとした体型にぱっちりとした大きな目が印象的な美女で、男子からは絶大な人気を誇っている。龍一郎も例に漏れず、彼女に憧れている……らしい。
真山先生はぴったりと寄り添うようにして火神先生の隣に並んでいる。
美男美女のふたりが並ぶと、教師というより、結婚式場のパンフレットにでも載っているモデルのカップルみたいだ。
――この男、いつも女の人と一緒にいるな。
ひな子は意地悪くそんなことを思った。
「水島くんは、これから練習?」
「はい!」
ひな子の思惑をよそに、龍一郎と真山先生は親しそうに話している。
真山は龍一郎の所属する三年B組の副担任だった。
ふたりの親しそうな様子に、何となく面白くないひな子が目を逸らすと。
ひな子の方を見ていた火神先生と目が合ってしまった。
火神の視線から逃れるように慌てて下を向いたひな子は、そのまま早足で行き過ぎようとしたが――
「羽澄さん」
艶のある低い声に呼び止められて、ひな子の肩がびくりと震えた。
恐る恐る振り返ると、
「ちょうどよかった。A組に運んでほしいものがあるんですよ。ちょっと化学室まで寄ってもらえるかな?」
火神が薄く笑みをたたえながら言った。
いや、笑っているのは口元だけで、目は全く笑っていない。
「え……はい。あの、え……?」
ひな子がドギマギと要領を得ない返事をすると、
「じゃ、一緒に来てくれるか? 真山先生、ではこれで失礼します。また明日」
「え、あの……」
火神は有無を言わさぬ調子でそう言い抜けると、何か言いかけた真山先生を放置して、スタスタと歩いて行ってしまう。
「あ、えと……そういうことだから。龍ちゃん、ごめん。今日やっぱり練習行けない」
「俺も手伝おうか?」
「えっ、あ……ううん! 大丈夫だから」
ついてこようとする龍一郎を何とか押しとどめて、ひな子はひとりで火神の後を追った。
――あの男、何を考えているの……?
ひな子の頭に、あの夜の……プールサイドでの情事が蘇った。
先生の指先が今でも胸の上を這いまわっているようで……ずっと忘れられないでいたのだ。
――もしかして、また……?
そう思うと、身体の奥のほうがじわりと疼いた。
*****
「……先生?」
化学室には誰もいないみたいだった。
「火神先生……?」
先に行ったはずの火神はどこだろう?
きょろきょろと室内を見回すひな子の目に強烈な陽の光が差しこんだ。
「んっ……まぶしい」
窓際に置かれた試験管が窓から差しこむ光を反射している。
ひな子は窓際まで歩いていくと、カーテンを引いて光を遮った。室内が途端に暗くなる。
「羽澄」
ひな子の耳朶を聞き覚えのある低い声がくすぐった。
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