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オブシディアン・ベアとの遭遇
太陽は稜線へと消え、世界は夜へと切り替わっていた。
月が出ていても辺りは暗い。しかし木が伐採され、道としての体をなしている山道のお陰で歩き易かった。
よく分からない鳥や虫たちの鳴き声が響く。先を歩くティアーネは辺りへの警戒を怠らず、しかし速い歩調で私の少し前を歩いていた。
危険な道だ。一刻も早く山道は抜けてしまいたい。しかし、流石の私も疲れが出始めている。だってしょうがない。
整備の行き届いていない荒れた道、山道ということで緩やかな傾斜。大人の足でも誰だって疲れる。一切疲れを見せないティアーネが異常なのだ。
「ティアーネちゃん、そろそろ休憩しない?」
夕方に遭遇したグレムリンと戦っている途中以外、ほぼ歩きっぱなしだ。私は耐え切れず休憩を提案した。温かいお茶が飲みたい。
「レーネスさん、この辺りは大型モンスター、オブシディアン・ベアの目撃情報もある地帯です。もう少し頑張って安全地帯まで抜けてから休みましょう」
険しい顔で答えるティアーネ。
オブシディアン・ベア。黒曜熊とも呼ばれ、名前の通り全身黒い体毛で覆われた熊系統のモンスター。非常に強靭な身体を持ち、その体毛と分厚い筋肉、脂肪は剣士の斬撃すら防ぐという。生息数は少ないが縄張り意識が強く、他のモンスターや人間も関係無く襲い掛かるという。
いざ討伐となると、騎士団が派遣されることがあるほどの危険なモンスター、そいつがこの辺りで目撃されているなんて……。ツイてない。
「でも山道の近くまでは出てこないでしょ?」
モンスターは通常、人が通る道の周りは好んで近づかない。それこそグレムリンのように知能が低いモンスターは別だが、ある程度知能があればモンスターにとっても狩られる危険が高い、人間が作った道には近づかない。
「どうですかね、オブシディアン・ベアは自分の縄張り内だとかなり好戦的なモンスターです。山道も含めて自身の縄張りとしている場合、襲い掛かってくる可能性はあります。それに……」
ティアーネは一瞬言葉を区切り、私を見る。
「我々は二人です。人間二人ならば勝算十分と思うかもしれませんね」
まるでオブシディアン・ベアがこちらの人数を確認してから襲ってくる、そう言いたげな口ぶりだった。
「まさか。相手はモンスターよ? そんなことまで考えないでしょ」
「モンスターにも個性があります。力が強いものも賢いものも数多の種族が存在しています。オブシディアン・ベアはその両方を備えていて危険です」
「でも」
ティアーネの蒼い瞳を見つめる。星の輝きを映す美しい瞳。
「貴女なら勝てるんでしょ?」
先ほどのグレムリンとの戦いを見て感じた。彼女なら大抵のモンスターに勝てる筈だ、と。
「実際に戦ったことがないのでわかりませんが、勝てるつもりではいます」
彼女の声には見栄も、虚勢も感じない。恐らく自信があるのだ。オブシディアン・ベアが相手でも勝てるという。
「ですが、危険は予め回避するのが賢いやり方です」
「ごもっとも。貴女の言う通り」
なるべくこの地域から最速で抜け出せるよう、私は足を速める。
しかし、ティアーネは足を止める。
「待って下さい。もう、遅いかもしれません」
「遅い、それってどういう……」
ティアーネが唇に人差し指を立てにして当て、静かにするようにとジェスチャーする。私はそれに倣い口を紡ぐ。
「足音……。かなりの重量。こちらが風上だったので気付かれたようです」
彼女が山の木々が作り出す暗闇を見つめる。その先に何か怪物がいるかのように。
思わず唾を飲み込み、喉が音を立てる。涼しい夜風を浴びているのに汗が滲む。
大きな黒い影が暗闇の中から現れた。
静かに、ゆっくりと、こちらを威嚇するように。
黒い身体の頭に当たる部分に、闇でも爛々と輝く光が二つ。
出た……。本当に出た。
「オブシディアン・ベア……」
黒い巨躯。普通の熊とは比べ物にならない威圧感。一目でソレと分かる雰囲気を、暗闇から現れた巨獣は纏っていた。
ティアーネが私を庇うように前に出る。
「かなり新しい足跡がありましたので、この近くに居るだろうとは思っていました。でも、山道は縄張り外の筈なのに」
なんて、驚きの発言をするティアーネ。しかも僅かに見える横顔は涼しげで、当たり前のように語った。
「な、なんでそれを早く言ってくれないの……」
オブシディアン・ベアの足跡があったなら、もっと早くにルートを変えるなり、対策を考えていたのに。
「ルート、この道だけでしょう? それに、商品を早く首都まで運びたいのですよね?」
そう言われ、ハッとなって胸に手を当てる。そうだ、これをいち早く首都に届けて売りさばかないと。時間が経つほど価値は落ちてしまう。
「そうね、首都へ最短で到達するのが至上目的。クマさんには悪いけど通してもらいましょう」
覚悟を決める。
私だって商人の端くれだ。危険はつきものだと理解している。
「相当気が立っているようですね」
ティアーネは口を動かしながらも、オブシディアン・ベアからは視線を外さず、両手を目線まで上げて油断無く戦闘態勢をとっている。
「本来は無意味に人間を襲うような、モンスターではないのですが」
「そうなの? でも獰猛だって聞いてる」
「それは人間側の視点です。襲われる側からしたら、全てのモンスターは危険で獰猛ですよ」
「オブシディアン・ベアは違うってこと?」
「このモンスターは縄張り意識が強いだけで、その縄張りに侵入しない限りは人を襲ったりしません。なにせ賢いモンスターです。人間の人数や実力を遠くから観察し、勝ち目が薄いと判断した場合は予め戦闘を避けます」
「それなのにこんな興奮状態で、縄張り外の山道に、しかも人数でも不利なのに自ら戦いをしかけてくるのはおかしい、ということ?」
「その通りです。レーネスさんは察しがいいですね」
「それはどうも」
私達を見つけたオブシディアン・ベアは興奮しているようで、荒い息を吐きながら一歩、また一歩と近づいてくる。とても逃がしてくれそうにない雰囲気だ。
ティアーネも一歩前に出て、目線は目の前の黒い影から離さず、短く静かに私に話しかける。
「迎撃します。そこを動かないで下さい」
喋り終わると同時に、ティアーネは地面を蹴って一つの突風に変わる。
半日近く歩き続けているのに、その脚力に一切の陰りは見えない。
瞬く間にティアーネとオブシディアン・ベアの距離が縮まり、まさにぶつかり合う寸前、ティアーネが眼前から消失する。
いや、消えてはいない。オブシディアン・ベアの右側へ高速で回り込んでいた。速過ぎて私の目で捉えきれず、まるで姿が消えたかのように錯覚したのだった。
だが恐るべきはオブシディアン・ベア。そのスピードにも翻弄されず、巨体からは想像も出来ないほどの身のこなしでティアーネに向き直り、迎撃体勢をとる。
しかし、一瞬遅い。速度ではやはりティアーネが上回り、右拳の一撃が左の目元に直撃した。
やった! ティアーネの勝ちだ。そう思った。
だが……。
ティアーネを引き裂こうとオブシディアン・ベアの右前足が振り払われる。その鋭い爪が直撃したら鎧を着込んでいても無意味だ。鍛えられた剣のような鈍い輝きを放つ黒い爪、鎧すら着ていないティアーネがその前足に捕まれば、その白い肌もズタズタに切り裂かれてしまうだろう。しかしオブシディアン・ベアが引き裂いたのは、何もない空間だけだった。
ティアーネは素早いステップで後退し、爪の脅威から逃れていた。
彼女は顔色一つ変えていないが、私はそうはいかなかった。なぜならティアーネの拳打の威力は、先ほどのグレムリンとの戦闘で十分に理解していたからだ。頭を殴れば一発で戦闘不能に陥るほどの威力。それがオブシディアン・ベアには全く効いていない。……ように見える。
「やっぱり逃げた方がいいんじゃ……」
思わず弱気な言葉が出てしまう。ティアーネの事を信頼しないといけない、というのは頭では理解できているが、気持ちがついてこない。
端的に言うと……怖い。
もちろん自分の身に危機が迫っているというのもあるが、私はこの短い時間でティアーネのことを気に入ってしまっていた。彼女が傷つき、ましてや命の危機がある、というのが己の胸を締め付けていた。
「逃がしてくれそうにありませんよ、この熊さん」
私の緊張とは打って変わり、ティアーネの声からは緊張を感じられなかった。
その声を聞いて少し安心する。
「この巨体で、非常に足が速いそうですから」
言い切る前にティアーネは再びオブシディアン・ベアに攻撃を仕掛ける。
今度は回り込むことなく、真正面から突っ込む。迎え撃つ黒い巨影は、後ろ足二本で体重を支えて起き上がる。
大きい。ティアーネの身長の二倍くらいありそうなほど巨大な敵だ。そのバケモノに対して、ティアーネは加速を緩めることなく、前足が振り下ろされるより早く懐に飛び込む。
一発、二発、さらにもう一発。左右の拳を腹部に叩き込む。グレムリン相手なら身体を吹っ飛ばすだけの威力があった。それでもこの怪物には通じない。
オブシディアン・ベアは低く唸り右前足を振り下ろす。巨体からは想像もつかない速さで振り下ろされる無慈悲な一撃は、巨木を思わせる太さと重さを持っていた。
自身の攻撃が効いていないと悟ると、ティアーネは即座に腕を上げて防御する。ガントレットは強靭でオブシディアン・ベアの爪でも傷つくことなく受け止めた。
ティアーネは体勢を崩さない。一体どこにそんな力が秘められているのか。ティアーネはオブシディアン・ベアの巨大なハンマーで殴られたような一撃を、完璧に受け止めていた。
ブーツが地面にめり込むほどの重い一撃でも、ティアーネは耐え切る。
さらにオブシディアン・ベアは左前足を振り上げる。右だけでは足らないと判断したので、更に攻撃を加えるつもりだ。
「あぶないっ!」
思わず叫ぶ。
しかし、私の叫び声よりも早くティアーネは動いていた。受け止めていた右前足を右に強引に逸らし、重量の束縛から抜け出す。体勢を崩した黒い巨獣に対し、ティアーネは身体をそのまま一回転させて右足で回し蹴りを打ち込む。金属製ブーツの踵は鈍い音をたてて脇腹を強打する。
「よしっ!」
まずティアーネが無事なことに安堵し、蹴りがクリーンヒットしたことに私は喜ぶ。それでもティアーネの表情は厳しい。
「……そんな」
まだ動いてる。黒い猛獣は未だ健在。グレムリンの首を刈り取るほどの鋭さがある回し蹴りを受けて尚、オブシディアン・ベアは大きなダメージは負っていないように見える。
それどころか、更に殺気立っている。吐く息は荒く、目は暗闇の中で爛々と光る。完全にティアーネを殺害対象として見ている様だった。
「本当に勝てるの……?」
頼みの綱のティアーネは攻撃が効いていない。私が持っているのはナイフ一本くらいのもの。荷物の中に商品の拳銃があるにはあるが、取り出せるだけの時間があるのか。そもそもあの毛皮と硬い筋肉相手で銃弾が通るのか。
もっと言えば、まともに使ったことがない拳銃がこの距離で当たる気がしない。
八方塞がりじゃないか。なにも出来ることはない。
……嫌でもあの夜の事を思い出す。私達の商人隊がはぐれ騎士団に壊滅させられた夜の事を。
あの時は、たまたま助かった。戦闘力が無く、女だからはぐれ騎士団に殺されず連れ去られる所だった。しかし、助けてくれた人がいた。
『霞の白騎士』と呼ばれる正体不明の強い騎士に。
そう、結局調べても正体はわからなかったなぁ……。もう一度会ってみたかったけど。
虚ろな目でこれまでの人生を回想していると、夜の闇の中でもはっきりと聞こえる凛とした少女の声が、私の鼓膜を揺らした。
「勝手に諦めないで下さい」
彼女はまだ諦めていなかった。自身の攻撃は通じず、対して相手からの攻撃は全て致命傷になるような、圧倒的な差があるのに。
「でも攻撃が効かないんじゃ……」
「殺す必要はありません、相手は賢い生き物ですから」
ティアーネは度々「賢い」というけど、今のところそんな様子は見られない。ティアーネの接近に対して素早く反応する程度の話だ。
でも。
どの道、彼女を雇った以上、彼女と運命を共にするしかない。彼女を見捨てて逃げるなんてこと、私には出来なかった。
「ティアーネちゃん、お願い」
今度こそ覚悟を決め、ティアーネに託す。
「かしこまりました」
スカートを靡かせ、彼女は疾風の如く加速してオブシディアン・ベアに突っ込む。
さっきまでより、速い……!
私の目でも、オブシディアン・ベアの目でも捉えきれず、ティアーネの姿は白い風となり数発のパンチとキックを黒い魔物に浴びせる。
頭部に腹に足に。
オブシディアン・ベアが怯み、頭を守ろうと左前足を上げて防御しようとする。
するとティアーネは回し蹴りで右頭部を蹴り抜く。
蹴りを受けてもオブシディアン・ベアは倒れない。しかしダメージはあるようで、頭を蹴られるのを嫌い、ティアーネの蹴りが届かない高さに逃れようと、後ろ足二本で再び立ち上がる。
それをティアーネは見逃さない。今度はローキックで後ろ足を攻める。
痛みに吼えるオブシディアン・ベア。対してティアーネは攻撃の手を緩めない。自身の倍以上巨大なモンスターを手数で圧していく。
左を守れば右を殴り、右に避ければ右に回りこみ蹴りで動きを制する。
オブシディアン・ベアは攻撃もままならない。ティアーネのスピードに翻弄され、致命的な打撃をかわすことで手一杯なように見える。
「――もっと速く、――もっと重く」
ティアーネは呟き、さらに動きを加速させ、攻撃の重みを増していく。
最早私にはティアーネが白い影にしか見えなかった。白い影が黒い巨獣を押し留め、纏わりついて徐々に後退させていく。
だが致命傷はない。ティアーネの攻撃には決定打が欠けていた。オブシディアン・ベアの方はその爪、牙が一度でもティアーネを捉えれば、簡単に殺せるという確信があるのか、焦っている様子は見られない。
ティアーネが言っていた『賢い』というのは、このことだろうか。
永遠に続くかとも思われた攻防、しかしその綻びは意外なところでもたらされた。
不意に、ティアーネの足が止まる。
どうして!?
彼女の足元を見ると、木の蔦が絡まっていた。
ここは整備の行き届いていない山道。元々足場は良くない上に、夜中で見通しは悪い。今までその影響を受けずに高速戦闘をしていたティアーネが異常なだけだ。
本来なら転倒していてもおかしくはない。しかし彼女のバランス感覚は、転倒を許さず足を止めるだけで持ち堪えていた。
だが。
オブシディアン・ベアに容赦はない。彼女の首を刎ねる気だ。右前足を大きく振りかぶる。
あのモンスターの腕力なら、今度こそ腕ごと首を持っていくだろう。
しかし、なぜだろう。
不思議とティアーネが負ける気はせず、まっすぐその戦いの結末を見届けることが出来た。
振り下ろされる凶腕。
その腕を見据えて。
ティアーネは僅かに、笑った。
そこで漸く気付く。さっき足を止めたのは、蔦が絡まったからじゃない。敢えて体勢を崩したように見せたのだ。相手の大振りな攻撃を誘う為に。
紙一重で上体を低くし、その爪から逃れる。そして縮めた身体のバネを最大限に反発させ、腹部に渾身の右突き蹴りを叩き込んだ。
蹴りはオブシディアン・ベアの腹部に深々と食い込み、それでも尚勢いは止まらない。
その衝撃は風を巻き起こし、黒い巨体の後ろ足が地面から離れる。
「……わお」
オブシディアン・ベアが吹っ飛ぶ。ティアーネの渾身の蹴りをモロに受けたその身体は、大地を離れ山道から現れた草と木の陰まで十メートル以上吹き飛び、受身も取れず地面を三回転した。
驚いた。
まさかそんな威力があるなんて。その小さな身体の何処に、そんな力が。
ティアーネが両腕を下げ、深く息を吐く。
「死んだのかな?」
暗い木々の間を見つめるティアーネに問いかける。
さすがにあれを受けて生きているとは思いたくない。だがティアーネの言葉は、私に知りたくない情報をもたらす。
「いえ、生きてますね。あの毛皮と脂肪は早々貫けません」
「マジ?」
「マジです」
その言葉に反応するように、再び暗闇から月明りの元へ現れるオブシディアン・ベア。
「でも大丈夫です」
私を落ち着けるように、優しい口調でティアーネは言う。
するとオブシディアン・ベアはティアーネを忌々しく睨みつけた後、彼女が追撃の意志がないと悟り踵を返し、再び木陰の闇へと消えていった。
「ね、賢いでしょう?」
ティアーネが私の目を見て微笑む。
「勝てないと悟った相手には、それ以上は戦いを挑みません。自身の生存を優先します」
なるほど、彼女が言っていたのはこういうことか。
「なるほどねぇ、確かに賢い。人間の中には力の差も理解できずに闇雲に命を散らすヤツ、多いからね」
「そういうことです」
ともあれティアーネのお陰で、恐るべき怪物は撤退してくれた。
あれだけの戦闘をこなして、彼女には傷どころか息の乱れも見られない。
ひょっとして、とんでもない人物を雇ってしまったのかもしれない。
しかもお得な額で。
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