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ベンチにて
「じゃあ、次の仕事はこの日で」
よく晴れた日の公園で、屋根が付いた四角形のベンチに座ったマリーエール・アネモネは、携帯で電話をする振りをしながら、後ろに座った情報屋の男と、屋根を支える柱越しに会話をしていた。
「わかったわ」
マリーエールことマリーの目の前を、4歳から6歳くらいまでの子供達数人が走って行った。
天気が良いからか、子供達はあちこちの遊具の上にもいた。子供達の他にも母親が大勢いて、誰もが我が子を見守りながら、母親同士会話をしていた。
その中に自分が入ることは無いだろうーー暗殺を生業としている限りは。
「マリー、いいのか。この仕事は危険が伴うぞ」
「わかっているわ。この仕事を生業としている以上、全て、覚悟の上よ」
情報屋の男は、ふっと笑った。
「前より柔らかくなったな。前は『孤高のマリエル』にこんな話をしただけで、怒られたものだが」
「そうだったかしら? これが100回目の記念すべき仕事だからじゃない?」
柱に寄りかかりながら、マリーは仕事の回数を数えた。
おそらく、今回引き受けた仕事で、マリーがこの仕事をーー暗殺業を、始めてから100回目の仕事になるはずだ。
「いや。それだけじゃないな」
子供達の声が一際、大きくなった。マリーの目の前の砂場からだった。砂場で数人の子供達が、作った砂の山ーーおそらく、城だろう。を新しくやってきた子供が崩したからだった。
おそらく、他の子供達の母親も同じことをすると思うが、喧嘩になったら、すぐに飛び出して行けるようにしようと、マリーは決めた。
しかし、喧嘩は起きるどころか、新しくやってきた子供も一緒に、砂の山を作り始めた。その順応性の高さも、子供ならではだろう。大人では到底、真似は出来ない。
「じゃあ、なんだっていうのよ」
マリーは砂場から一切の目を離さずに、情報屋の男に言い返した。
後ろを一切振り返らないのは、情報屋の男と話している事がバレてしまうからだけではない。
それ以上に「大切なもの」が目の前の砂場に居るからだった。
「子供が出来てからだな」
じゃあ、よろしくなっとだけ言い残して、情報屋の男は去って行った。
公園から去って行く途中で、子供が転んだのを助け起こしたのだろう。「助けて頂きありがとうございます。お子さんの付き添いですか?」、「まあ、そんなところです」といった転んだ子供の母親と、言葉を交わした声が聞こえてきた。
マリーが取引先を公園で指定しただけあって、姿だけ見れば、どこにでもいる父親の格好をしているのだろうーー後ろを振り返っていないから確証はないが。
マリーが携帯を耳から離すと同時に、砂場で遊んでいた女の子がマリーに走り寄ってきた。
「ママ、おはなしはおわったの?」
オレンジ色のパーカーを着た女の子、マリーが目を離せなかった「大切なもの」でもあるーーエレナ・アネモネは、マリーの隣に座った。
「ええ。エレナ、喉は乾いていない? ジュース飲む?」
うんっと答えたエレナに、マリーは持参した保冷バッグから、紙パックのオレンジジュースを取り出すとエレナに渡した。エレナは紙パックに付いていたストローを指すと、オレンジジュースを飲んだ。
頭の上で2つに結んだエレナの黒髪には、細かい砂が沢山付いており、これは家に帰ったら、お風呂に直行だなぁっとマリーは苦笑した。
「ねぇ、ママ?」
エレナはストローから口を離すと、マリーを見上げた。
「なあに?」
「エレナのこと、すき?」
「だいすきよ」
「じゃあ、ウィルおじさんは?」
「すきよ」
ウィルおじさんーーマリーとエレナが居候している、バー兼情報屋の男。は、2人の恩人としてマリーは好きであった。
「ママは?」
「え?」
「ママは、ママのこと、すき?」
「私は……」
私は自分の事が好きなのだろうか、暗殺業を生業として、自分の手を汚し続ける自分の事を。人の命を何とも思っていない、自分の事を。
「エレナは、ママのこと、だいすきだよ」
マリーが返事に窮していると、エレナはぴったりくっついてきた。マリーはエレナの肩を優しく抱いた。
「そっかあ……」
「ほんとうだよ! エレナはママのことが、だーぁぁいすきっ!」
マリーが本気にしていないからか、エレナはマリーの腕を引っ張ってきた。
「エレナは、ママのことが、ひゃ、100? がつくくらい、だいすきだよ!」
エレナは覚えたての言葉を使って話すと、マリーに抱きついてきたので、マリーはエレナを抱きしめ返した。
「うん。わかったわ。わかったから、ほら、あそんできたら?」
空っぽになった紙パックを預かったマリーは、遊具を指差した。遊具の上からは、マリーとエレナに気づいた子供達と、マリーが指を指した事に気づいた母親達が呼んでいた。
マリーはエレナだけを遊具に行かせた。マリーには、あの中に入って行く事は出来なかった。住んでいる世界があまりにも違い過ぎたからだった。
遊具に向かう途中、エレナはマリーの方を振り返った。忘れ物でもしたのかなっと、マリーが首を傾げると、エレナは大声で叫んだ。
「エレナも、ウィルおじさんも、みーんな、ママのことが、だいすきだからね!」
エレナは手を振ると、遊具に向かって走って行った。そして、遊具にいた子供達に教えられて、遊具で遊び始めたのだった。
マリーは喜びで心が震えたのを感じた。泣き出しそうになったのを、歯を食いしばって、ぐっと堪えた。
自分で選んだとはいえ、この仕事を始めた時は、恨まれたり、嫌われることはあれど、好かれたり、愛されることは無いだろうと思っていた。
特に、エレナの実の両親は、マリーが殺したようなものなのだから。
だから、いつの日か、真実を知ったエレナに恨まれる日が来るかもしれないし、エレナに復讐として殺されるかもしれない。
マリーの中で、覚悟は決まっていた。その時は、エレナの好きにさせようと。
たとえ、そんな未来が来たとしても、マリーは今日の様な、エレナとの楽しい思い出を糧として、生きていける。
この楽しい思い出は、他でもない。マリーとエレナだけの思い出なのだから。
「だいすきか……」
口に出してみると、意外と恥ずかしい言葉だった。
恥ずかしがらずに言葉に出来るのも、子供ならではの素直さなのだろう。マリーには到底、真似は出来そうになかった。
楽しそうに遊具で遊ぶエレナの笑顔を見て、マリーは心が温かくなっていくのを感じたのだった。
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