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どれだけ走っただろう……
私は近くにあった石に片手をついて寄りかかった。
こんなに一生懸命走ったのなんて久しぶりかもしれない。
体中が火照って熱い。
もう…一歩も歩けない……
肩で息をしながらひんやりとした感触の石に目を向けると、上の部分が橙色にぼんやりと光っていた。
それは石畳に沿っていくつも並んでおり、昔ながらの常夜灯のようだった。
昼間回った観光地とはまた違う、風情ある木造家屋の軒先には提灯が灯り、道行く人を照らしていた。
街全体がしっとりと濡れたような良質な雰囲気に包まれていた。
ここが祇園甲部……?
私のような子供がくる場所ではないことは明らかだった。
居心地の悪さに移動しようにも、ここからどこに向かえば帰れるかさえわからなかった。
「迷子にでもなったのかい?」
あたふたと周りを見渡す私に後ろから誰かが声をかけてきた。
その低く澄んだ声に振り向くと、一人の若い男が立っていた。
深い色合いの着物を身にまとい、肩まで伸びた髪を無造作に後ろにひとつでまとめ上げ、手には煙管を持っていた。
月夜に照らされた彼はとても優美で……煙管を口に含み、煙をぷかりと吹かす流れるような所作に魅入ってしまった。
男の人に対して…いや、女の人にもこれだけ色っぽいと感じたことは今まで一度もない。
「今宵は月が綺麗だねぇ。」
夜空を見上げ、まるで月を支えるかのようにそっと手をかざす……
なんてうっとりするぐらい綺麗な人なんだろう。
なんだか胸が苦しくなってきた…ってやばいっ。
食い入るように見てたから息をするのを忘れてた。
ケホケホと咳き込んでしまった。
にしても……
「……あの…あなたは舞妓さんですか?」
明らかに違うのに、トンチンカンなことを口走ってしまった。
彼は特別表情を変えることもなく、口元だけをフッと緩めて微笑んだ。
「私は男だから。舞妓は君のような若くて可愛い女性がするもんだよ。」
「そんなっ……」
可愛いと言われて照れてしまった。
冷静に考えればこんなに綺麗な人に可愛いと言われても全然説得力なんてないのに……
ついつい間に受けてしまった。
「千夜さんは舞子に会いに抜け出して来たのかい?」
「へっ?」
なぜ私の名前を?
驚く私の胸の辺りを、彼は煙管でちょいちょいと示した。
そこには渋谷千夜と書かれたゼッケンがでかでかと貼られていた。
そうだ…私、体操服姿だった。
中学校名までバッチリと刺繍されている。
「この時間、舞子はもうお座敷に上がっている時間だから外を歩いてはいないよ。」
「そう…なんですか……」
滝沢さん、爪が甘いな…とんだ無駄足じゃん。
でもそのおかげで彼と出会えたのだからいいか……
むしろ感謝しないといけないな。
「天満月の夜に、千の夜と名乗る女性に会えるとは実に風雅だ。」
言葉の意味はよくわからないが、どうやら私の名前を気に入ってくれたらしい。
「あの…良ければあなたのお名前も……」
そう聞こうとした時、遠くから私の名前を呼ぶがなり声が近づいてきた。
コワイの声だ。相当怒っているっ。
「目上の人の言うことは聞かなければいけないよ。じゃあね、千夜さん。」
彼は私に軽く会釈をし、カラコロと下駄を鳴らし歩き始めた。
横に並んでついて行きたかったのだけど、こんなダサい体操服のままで彼の隣を歩けるはずがなかった。
でももっと……
もっと彼と話がしたいっ。
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