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 桜の花びらが、ふわりと一矢の肩に舞い降りた。  へえと思って眺めていると、次から次へとちらちらと降って来る。桜吹雪だ。  残念ながら、こうした光景を綺麗だと思う情緒など一矢にはない。  雨の降る日に桜が散ると、その花びらが濡れた車のボディに貼り付いてしまう。そういうの、ヤだな──そうした認識がせいぜいだった。  ただ、七生が『綺麗だなあ』などと目を細める様はいいなと思う。  今も、七生に見せてやったら喜ぶかなって思った。  花びらは、どんどんどんどん降って来る。綺麗というには花びらの量が多過ぎだ。情緒も何もありゃしない。  いい加減にしろよと見上げたら、それこそ、バケツの底が抜けたような豪雨ってなくらいに、どさっと花びらが落ちて来た。  いったい何だってんだ。こんな桜吹雪があるものか。  纏い付く花びらで、鼻も口も耳までもが詰まってしまう。  一矢は、貼り付いて来る花びらを引き剥がそうと腕を振り回したが、そんなものでは追い付かない。  花びらはどんどん降り続け、一矢はその薄ピンク色の山に呑み込まれて行く。  このままじゃ、死んじまう。  ──って。 「うっ、わああああ」  大声で叫んだ瞬間、目が覚めた。  そうか、自分は眠っていたのかと、そこに至って初めて気づく。どうやら、肩を揺すられもしていたようだ。 「ごめんな、起こしちゃって」  でも、(うな)されてたから──のほほんとした声は七生のものだ。七生が、花びらの山の中から引っ張り上げて──もとへ。夢から現実へと一矢を引き戻してくれたらしい。 「おまえ、顔の上に枕を乗っけて、ぶんぶん腕を振り回してた」  何が起きたのかと思っちゃったよと七生は眉を寄せている。  そんな顔すら可愛いと、一矢は半身を起こしてキスをした。  さすがに慣れたもので、その程度では七生も動じない。が、その頬はほんのりと染まっていたりする。やっぱり、七生は可愛いらしい。今日も、そんな七生と一日の始まりを迎えられて幸せだ。  なのに───。 「どうかしたのか?」  一矢がふっと表情を曇らせたことに気づき、七生は尋ねる。  鈍いようで、七生は聡い──ところもある。当然、そうでないところも多い。いや、そっちの方が断然多いとも言えるのだけれど。 「ん……いや」  らしくない曖昧な言葉を返しながらも、一矢はフル回転で思いを巡らせていた。  どうして、あんな夢を見たのだろう。  テレビのニュースで桜前線がどうのと聞いたからだろうか。  それにしても──とため息が口を突く。  ざわざわとするこの感覚。胸騒ぎというヤツだ。  何だか、すっごく、ヤな予感がする。  何しろ天才なもので、この手の予感が外れたことはない。 「新田?」  七生は、いつにない一矢の様子に心配気だ。  自分を想ってのことと思うと、ついつい、にやけてしまう。が、いつまでも、そんな顔をさせてはおけない。  何があったとしても、七生を守る。絶対に、もう傷つけさせたりはしない。  そうすると一矢は決めていた。そうしたいからだ。 「何か、いいことあった?」  ひとまず、にかっと笑って尋いてやる。 「今にも笑い出しそうな顔してる」  こうして切り返してやれば、七生の不安は消えるだろう。 「何だか、それじゃあ、俺が阿呆みたいじゃないか」  案の定、むっと七生は眉を寄せた。至って単純。  でも時々、七生がわざと乗ってくれているんじゃないかと思うこともある。 「たださ、もうゴールデンウィークなんだなって思って」  窓へと歩き、七生はしゃっとカーテンを引き開けた。眩しい朝の陽射しの中、振り向いた七生の口元は綻んでいる。 「ゴールデンウィークなんて、おまえには関係ないじゃん」  何せ、未だに無職様だ。 「そういう言い方をしなくてもいいじゃないか」  ぷうっと七生は素直に頬を膨らませる。これでも気にしているんだぞ──って、それはそうなのだろうけれど。  不運に不運が重なって、七生は未だに再就職を果たせてはいない。派遣会社に登録して試食販売や交通量調査のバイトに励みつつ、今もハローワークに通い詰めていた。 「確かに、俺には連休なんてないけどさ」  七生にはこのゴールデンウィーク期間中もバイトが入っている。かえって、こういう時ほどバイトの需要は高まるらしい。 「でも、何かいいことがありそうな気がするだろ?」  そう言って微笑む七生のやわらかいものの考え方が大好きだ。なのに、そこで一言、言ってしまうのが一矢の悪いところだ。 「それさ、ゴールデンっていう響きに騙されてんだよ」  おまえは雰囲気に弱いからなとお軽く言ってやると、七生はそんなことがあるかと目を剥いた。どうせ貧乏だよと言ってもいないことでまで拗ねられる。だがそこで、でもな、と七生は真剣な面持ちを見せた。 「連休だと、試合だって観に来てくれる人が多くていいじゃないか」  みんながおまえのプレイを見てくれるんだと、七生は自分のことのように目を細める。 「給料が高くなるわけじゃねえけどな」  ひょいと肩を竦めながら、一矢はベッドから降り立つ。そして、また、そんなことをと顔をしかめる七生を抱き寄せた。 「でも、来年の稼ぎにはなるかもしんねえもんな」  一矢はにかっと笑い、ちゅっと七生の唇に触れる。あっ、と小さく零れる吐息までが愛しい。 「ちゃんと走るよ」  囁きながら、一矢はキスを繰り返す。このまま、なし崩しに朝の一発といかないだろうかと思い始めた時だ。 「あのさ、新田」  腕の中で、遠慮がちな声がした。  聞いて欲しいことがあるのだろう。気が乗らないだけなら、がつんと一発、どついて来たはずだ。  ものすっごく惜しい気はしたし、心残りもたっぷりあったが、それでも、一矢は七生を解放してやった。  そうして、とすんと、も一度ベッドに腰を下ろし、さあ何でも言ってみろよと七生を見上げる。 「俊……おまえの親父さんから貰った名刺の人に電話を掛けてみようと思うんだ」  躊躇いがちに七生は話を切り出す。以前、あのクソの手から一矢を通し、七生に手渡された名刺のことだ。 「何とか自分の力でって思っていたんだけど……」  けれど、七生の希望するような仕事は滅多にない。一番希望に近いだろうと判っていて、クソの渡した名刺を、これまで七生は使おうとはしなかった。  わざわざ断って来るのは、七生が律儀な奴だからというだけではない。  一矢と俊光の確執を知っているからだ。 「採ってもらえるかの保証はないって、あのクソは言ってたよ」 「うん、判ってる」  こくんと七生は頷いた。そうしたコネによる入社を七生自身も望んではいないはずだ。 「でも……」  そう続けた七生の目には決断の色があった。こうした時の七生は止められない。そして、止める権利など誰にもない。 「それ、半澤って奴のだろ」  名刺にその名が記されていたことは憶えている。 「知ってるのか?」 「何回か顔を合わせたことはあんよ」  あのクソよりは少し若く、でもって、クソと似たようなことをしている奴だ。男も女も有り、でもって男寄りなところがクソとは違う。クソはどちらかというと女寄りだ。  何にしても、似たり寄ったり。クソ2号ってところだ。  だが、お寒いと言われている出版業界で生き抜いて来たからには、それだけの能力があるのだろう。  男寄りなところは気に入らないが。  ──っつうか、気に入る訳がない。七生に手を出したりしたら、ぶっ殺してやんぞとも思う。 「ありがと」 「えっ……」  七生は身を屈め、一矢の唇にそっと触れる。 「好きにさせてくれて感謝してる」 「おまえ……」  何を言っているのだろう。大好きな仕事を辞めさせてしまったのは一矢なのに。 「七生」  呼ぶと、何? と七生は小首を傾げる。  その仕草に一矢は弱い。  もちろん、すかさず、も一度、直ぐ目の前にある唇にキスをした。  一瞬、ヤな予感とは、このことかと思った。  が、違うと一矢の勘がそう告げる。  クソ2号のことは確かに面白かないが、これじゃない。  まだ、何かあるのだろうか。  ううむと唸ったその時、七生のスマホが鳴り出した。
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