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「今ひとつね」  リビングの中央にずんと仁王立ちし、八重は言った。部屋をひと回り見渡してからの一言だ。  一昨日、仕事の予定の入ってなかった七生が掃除をしたので、部屋は比較的マシな状態だった。  つまり、ケチをつけているのは部屋のレベルそのものにということか。さすがは、慎ましく暮らしている七生に、値の張るブランド品を平気でねだるだけのことはある。 「御殿でも建てろってえのかよ」  御殿に住んでいたならいたで、別の文句を言って来そうな女だけれど。 「ま、サッカー選手じゃ、この辺が限界かもね」  どうしたら、こんなムカつく言い方が出来るのかと感心したくなる言いっぷりだ。  ふんと、一矢は鼻息を鳴らす。  この辺ってえのは、どの辺なんだか。これから、何十億、何千億って稼ぐ男に何を言っているのだろう。  御殿なんて、軽々と建てられるに決まっている。  でも──だ。御殿を建てても、七生はこんな豪勢な場所では落ち着かないから暮らせないと言うかもしれない。今の部屋でさえ、殆どリビングと寝室しか使っていないようなものだから、他の部屋がもったいないと言っている。  リビングでいちゃいちゃ、寝室でしっぽりと──確かにそこが重要だ。  キッチンでべたべた、風呂場でいやああん、も捨て難いし、トイレも最低限は必要だけれど。  もし、七生が嫌だと言うのなら、あの廃校跡地を本宅にして、御殿を別荘にすればいい。  そうして、格好いいじーさんと可愛いじーさんになって一緒にボールを蹴り合うんだ。  そんな風に思っちゃいたから、別段、八重の戯言もさして気になってはいない。 「ここがお気に召さないなら、七生が住んでたアパートはどうなんだよ」  からかうつもりで尋いてやった。 「あれは論外」  ドきっぱりと、八重は言い切る。 「いかにも下町って雰囲気が結構良かったと思うけど」  ボロいアパートではあったけれど、一矢には大切な場所だった。あの部屋で、何度も七生と愛し合った。  最後に足を踏み入れた時の記憶が脳裏を(よぎ)り、一矢は一瞬、目を閉じた。  ひっくり返ったテーブル。破れた襖。  そして、血塗れの───。  馬鹿なことを口にした。  こんな形で軽々しく唇に乗せるべきことではなかった。 「やけに慣れ慣れしく試食を押し付けて来る店の人だとか、やたら勘繰るような目を向けて来る隣人だとか?」  鼻先で笑うような八重の言葉に、一矢ははっと我に返った。 「何だ、よく知ってんじゃん」  かろうじて一矢は言葉を繋ぐ。前者は七生が贔屓にしている漬け物屋の女主人のことだろう。で、後者は七生の隣の部屋に住んでいる眼鏡の女のことに違いない。 「一度しか行ったことはないわよ」 「へえ、そうなんだ」  一度しか行ったことがないにしちゃ、よく憶えている。そう言ってやろうかと思ったけれど、口にはしなかった。  だって、もう引き払っちゃったじゃない──そんな呟きが聞こえて来たからだ。  窓際に立ち、外の景色を眺めている八重の横顔が、いっそうに引き締まって感じられる。この女は、どこまでを知っているのだろう。 「もう直ぐ昼飯だな」  湿気った思いを吹っ切るように、一矢は殊更に明るく言った。  食事の時間は、それまでの何もかもを忘れて食べることに集中するべし、と、これもまた、七生に教わったことのひとつだ。実際、どんなに喧嘩をしていても、食事の時間には顔を合わせ、『いただきます』と『ごちそうさま』を口にしている。 「何をご馳走してくださるのかしら」 「迎えに来てもらったんだから、お礼に奢ってやろうとか思わねえのかよ」  どうせ、値の張るものを奢らせようとしているのだろうが、冗談じゃない。  七生が仕事で留守の時などは、フェローチェの寮に食べに行くことにしている。今日もそうするつもりだった。安いし、栄養が考えられているからと七生のお薦めでもある。  だが、さすがに、この女を寮に連れて行くわけにはいくまい。  女を見慣れていない連中が、これだけの美女を見たら大騒ぎになりそうだ。 「思うわけないでしょ」  何で、私があんたに奢るのよと、お姫様はご立腹のご様子だ。 「じゃあ、作れよ」  委細構わずに一矢は言った。 「何で私が」 「さては、出来ねえんだな」  答えは判っていたから、すかさず突っ込む。 「な……」  何ですって──と甲高い声が上がろうかとしたその時、玄関のドアの開く音がした。ややあって、ばたばたとした慌ただしい足音と共に、ビニール袋をぶら下げた七生がリビングに現れる。 「七生?」  まだ、仕事中のはずなのに。 「七生さん、よ」  横から八重が突っ込みを入れて来る。そんな妹に、七生はよおと手を上げた。  息急き切りながらも、その顔は嬉しそうだ。取り敢えず部屋に連れて来た、という一矢の送ったメッセージを見て駆け付けて来たのだろう。  八重は、ふん、と面白くもなさそうな顔をしたままだけれど、きゅっと締まった唇が僅かにながら綻んでいる。  全くもって素直じゃない。  これで兄妹なのだから、やはり笑える。 「おまえ、仕事は?」 「休憩にしてもらって抜けて来た」  その言葉に、一矢は目を見開いた。  いつもだったら、七生は昼食も摂らずに『お試しください』をしている。  だって、その間にお客さんが来るかもしれないだろ、って言う。  そんな七生が、今日は仕事を抜け出し、息を切らして駆け付けて来た。  妹のために、だ。 「ほら、昼飯」  七生はよいしょと、下げて来たビニール袋をテーブルの上に置く。どうやら、昼食難民になりそうだと踏んで、買い込んで来てくれたらしい。 「八重にはイクラ丼弁当な」  おまえ、好きだろと言いながら、七生は弁当のパックを袋の中から取り出した。 「ちゃんと、高級って書いてあるから」  七生の言う通り、パックの蓋には『高級』と記されたシールが貼られている。  こんなものが妹の考える『高級』に当てはまらないことくらい、七生にだって判っているはずだ。けれど、自分に出来る精一杯をしようとしている。  ケチを付けるなよと、一矢は八重に睨みを入れた。  八重もそこまで大人げなくはないようで、ひょいと肩を竦め、手を洗って来るわと洗面所に向かう。そして、そのまま、なかなか戻っては来なかった。 「手を洗うだけにしちゃ、やけに長いじゃん」  戻って来ないのは、買って来てくれたものを並べる手伝いすらする気がないからだろうか。 「ついでに化粧でも直してるんだろ」  女っていうのは、そういうもんだ──などといった言葉を、七生の口から聞く日が来るとは思わなかった。  へええ、と思っているその間にも、七生はサラダだのお茶のペットボトルだのを、せっせとテーブルに並べて行く。 「おまえの好きなジンギスカン弁当も買って来たから」 「俺の……?」  それは、以前にも買ったことのある弁当だった。選んだ時に、えらく高いと文句を言われた。  いつもなら買いそうにはない、そんな高価な弁当をいそいそと買って来るほどに、七生は妹の来訪が嬉しいのだろう。  けれど、七生は妹だけでなく、一矢のことも気遣ってくれていた。そして、それらを買った金は、七生が立ちっ放しで稼いだものだ。 「おまえ、これ、好きだろ?」  こうした時、七生は自分のことのように笑う。本当に嬉しいって顔で笑う。  最後のひとつだったんだぞと言ったから、まんまとお目当てが買えたことが嬉しくてならないのだろう。  本当に可愛い奴だ。何だって、こんなにも可愛らしいのだろう。  一矢は、手近な位置にあった唇に首を伸ばして接吻けた。 「新……」  ほけっとしている七生の唇に、もう一度、触れる。  唇を離したその時、八重が戻って来た。
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