絶望の金曜日

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 仄暗い階段を上っていく。誰にも姿を見られたくなくて、そっと息をひそめた。4階のさらに上、ぞんざいに置かれた色褪せたカラーコーンを避けて、埃臭く短い階段を数段あがる。安っぽい金属の扉。鍵を差し込み冷たいノブに手を掛ければあっさりと開く。だだっ広い、何もない、薄汚い屋上。現実の学校の屋上なんてこんなものだ。赤い夕陽がコンクリートを這う。赤色を遮るのは給水塔と私だけ。 「今日も来たの?」 「逆に聞くけど、今日もいるのね。」 「絶望の金曜日だもんね。」 「ええ、一週間の中で一番希望のあるふりをした絶望の曜日。」 彼女は面白そうに笑いながらもう一度『絶望の金曜日』と呟いた。屋上にいる彼女は、マキと名乗った。彼女はいつも絶望の金曜日、他の生徒たちが部活に向かい、あるいは帰路につくころ屋上にいる。 私がマキに会ったのは二年前の冬だ。 私は絶望していた。私にはどこにも居場所がなかった。家も学校も居心地が悪く、ただ何の問題も起こさないよう波をたてないよう生きてきた。しかしふと思ったのだ。私は何のために生きているのか。きっと聞く人が聞けば馬鹿馬鹿しいと言うだろう。だがそれは私にとってそれは生きるか死ぬかを決める重要な命題だった。そして私が出した答えは生きる意味などない、というものだった。 金曜日が嫌いだった。一週間必死に生きて、死なないよう生きて。それでやっと休みがある。でもその休みは本当に一瞬で、顔を上げればすぐそばに月曜日が迫ってきている。まるで死ぬことは許さない、生きろと言ってくるようだった。生きている私は、まるで首に包丁を突き付けられながら毎日を過ごしていた。要は、それに限界が来たのだ。誰に急かされても、もう私の足は動かない。生きても生きても、生き続けなければならない。息をすることすらも億劫で。 気が付けば足は勝手に上へ上へと向いていた。フラフラとしながら屋上へ向かう。何故か鍵は開いていて、恐る恐る開けるとそこには先客がいた。赤い夕陽が落ちるころ。藍色の空が迫るころ。彼女はいた。フェンスの向こう側でひざ丈のスカートがたなびく。 5時57分。彼女はその身を宙に躍らせた。思わず悲鳴を上げた。きっと生まれてこの方出したことのない、けたたましいものだったと思う。屋上を飛び出したけれど、彼女が落ちた先を見ることは怖くて、私は裏門から遠回りして帰った。バクバクと大きな音をたてる心臓を抱え。私は自分が自殺しようとしていたことも忘れていた。飛び降り自殺をした生徒がいた。なのに次の日学校に行くと誰もその話をしていなかった。相変わらず実のない話。先生も生徒も、何も言わない。意を決して落ちた先を見に行った。でもそこには血の一滴も残されてはいなかった。 金曜日の5時57分。マキは屋上から飛び降りる。 そう知ったのは次の金曜日、屋上で彼女に会ってからだった。 マキは言う。もう何も覚えていないと。なぜ苦しんでいたのか。なぜ自殺したのか。覚えているのは身を投げたときの浮遊感だけだと。マキは言う。ここから逃れられないのだと。何もできなのだと。マキにできるのはただ一つ。金曜日の5時57分に身を投げることだけ。 「貴方が来るまで一人ぼっちだった。死んでからどれだけだったかも、覚えてはいないけど。」 「貴方に会うまで一人ぼっちだった。私は。それでももう私はここへは来られない。」 「一足先に卒業?私の方が先輩なのに。」 「私は留年しないからね。」 二年.二年間私は金曜の夕方屋上を訪れた。私のただ一人の友人で、同志は、死んでいた。死んでいても、私にとっては些細なことだった。大切な友人だった。それでも、私は生きていて、マキは死んでいる。私は卒業していく、マキは最期のときを繰り返す。 生きている私は、ここを離れなければならない。 「……死なないの?」 「死ぬはずだった。でも私がいくといつも先客がいるから。マキが飛び降りた後に飛び降りる気にはなれない。」 「あら寂しい。飛び降りれば一緒に居られるのに。」 クスクスと笑うマキ。そんなことを言う割に、本気で飛び降りさせようとはしない。 「ねえマキ。」 「なあに?」 「ありがとう。友達になってくれてありがとう。マキのおかげで私は生きていけた。」 「とんだ皮肉ね。」 一人ぼっちの私は、死んでいる友人に生かされた。金曜日の絶望は、全部マキが背負って飛び降りてくれる。死ぬ彼女を見て思うのだ。生きねば、と。選択のできる私は、生きなければならない、と。 「時間だわ。」 「……ばいばい、マキ。」 飛び降りる彼女を、私は見なかった。音もなく彼女は今日も落ちて行った。 掃除されていない階段には私の足跡が付いた。階段の窓からは暖かな橙色が光を落とす。鼻に突く埃の匂いは変わっていない。私はあの時とは違う、正規の鍵を持って私は屋上のノブを回す。金属の扉は軽い音をたてて開いた。 絶望の金曜日、夕方5時57分。 「……マキ、まだいたんだね。」 「そういう貴方は戻ってきたのね。」 「うん。もうセーラー服は着られないけど。」 マキはいた。昔と同じ姿で、屋上のフェンスの向こう側。相変わらず影はない。 「言えなかったことがあるの。」 「何?」 「卒業おめでとう。それから就職おめでとう。」 「ありがとう。」 「それから、おかえり。」 マキはあのころと変わらない笑顔で、笑った。 「ただいま、マキ。」 私は教師になった。マキは相変わらず死んでいた。 そして絶望の金曜日。彼女は今日も飛び降りている。
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