5 視線
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5 視線

 中條佐奈枝が帰った後、私はすぐに家を出た。  さっきの鏡の中の自分の姿が幻だとは分かっていても、とてもあの家の中に一人で残っている気にはならなかった。  だが外に出ても、夕刻を迎えつつある濁った空からは重苦しい雨が降り続くばかりだった。 「真……宙」  家路を急ぐ人々に紛れ、私は真宙のアパートへと向かう。  私にはもう、他に頼ることのできる人間は居なかった。  降りしきる雨の中、古びたアパートへと辿り着く。前に来た時と同じように、他の部屋に住民の気配はなかった。  錆びた階段を上がって『204』と書かれた部屋のドアをノックしてみるが、中から返事はなかった。ドアノブを回しても鍵が掛かっていて、通路側の擦りガラス越しに見ても部屋の電気は消えていた。 「どこに……行っちゃったの」  しばらくそこで待ってみたものの、真宙が帰ってくる気配はなかった。私は小さく溜息をついた後、差してきた傘をドアの横に立て掛けて階段を降りる。こうしておけば、私が来たことは分かるだろう。  辺りが宵闇に包まれていく中、街路灯の光が徐々に灯りだす。目の前を慌ただしく通り過ぎていく人々の姿も、見慣れているはずの町の景色も、降りしきる雨の斜線に掻き消されてどこか色あせて見えた。  傘も差さずに歩き続ける私のことを、特に気に留める者は居なかった。打ち付ける雨が激しさを増す度に、冷たい雨粒が私を嘲笑うかのように頬を伝っていく。  家に戻る気にはならなかった。  そうして、どのくらい当て所無く歩き続けただろう。  繁華街に差し掛かった所で、私は突然誰かに呼び止められる。 「羽吹……さん?」  振り返ったその先に居たのは、同じクラスの矢嶋芳樹だった。学校帰りにゲームセンターにでも行っていたのか、クレーンゲームの商品の入った大きな袋を手に持った矢嶋は、逆毛を立てたような髪を掻きながら訝しげに話し掛けてくる。 「大丈夫? ずぶ濡れじゃん」 「……」  私が黙り込んでいると、矢嶋は自分の傘を差し出してくる。 「今日学校休んでたけど、平気なのか? こんな所を出歩いてて」 「別に……」 「あの……それ、大丈夫か? 首の所、血が出てるけど」  手を当てると、指先に血が付いていた。近くのショーウィンドウのガラスに映った自分の姿を確認してみると、私の首すじには爪で引っ掻かれたような痕が残っていた。 「……」  血の滲む三本ほどの線の残る傷痕を、茫然と見つめる。  これは……さっきの鏡の中の女が残したものに違いない。だとすれは、あれは幻覚ではなかったのだろうか。  ハンカチで血を拭う私に、矢嶋はバツが悪そうに人差し指で頬を掻きながら言う。 「俺がとやかく言うことじゃないかもしれないけどさ。あんまり気にしない方が良いぜ」 「気に……しないって?」 「野瀬と藤繁のことだよ。あんまりあいつらに構わない方が良いってこと」 「あなたは心配じゃないの? 二人のこと」  睨みつける私に、矢嶋は意外そうな顔をして首を傾げる。 「心配って……。俺、あいつらとは関係ないし」 「どうして、そういうこと言うの? 同じクラスメイトなのに。それに凛と朱音は、私の友達なのよ」 「え、いや……友達って。昨日だって、藤繁と言い争ってたじゃないかよ」 「あなたに、何が分かるっていうの!」  力任せに傘を押し返し、私はその場から歩き出す。 「な、何なんだよ、いったい……」  不満げな矢嶋の声が背中から聞こえてくるが、構わずに歩き続ける。  何を信じれば良いのか、分からなかった。  誰が本物で、いったい何が真実なのか。  濡れた前髪から雨の雫が滴るたびに、頭の奥がじんじんと痛みだしていく。  気付くと私は、雑居ビルの建ち並ぶ狭い路地に迷い込んでいた。  ここは……どこだろう。  湿気た臭いが立ち込める中、薄暗い路地をゆっくりと進んでいく。  その時、薄暗い路地の奥に一人の人影が佇んでいるのに気付く。 「……」  足を止め、思わず息を飲む。  地面に水飛沫を上げ続ける雨の中に立っていたのは……真っ赤な傘を差した女だった。
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