第一話ㅤ金魚玉

1/2
45人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

第一話ㅤ金魚玉

 そのひとは、ガラスの風鈴を軒先に吊るして、かなしい顏でわらいました。そうして、長い間じっとその風鈴を見ていました。夕暮れの庭を涼風が吹き抜け、家屋の裏の竹林を揺らします。ざわざわという葉擦れの音が、だんだん不氣味な化け物の話し声のように思われて、私はとうとう堪えきれなくなってそのひとに声をかけました。  「なんですの、その風鈴」  先程からじっと風鈴を見つめて動かなかったそのひとは、私の声ではじめて現実に立ち返ったかのようにこちらを向きました。  「金魚玉だよ、風鈴じゃなくて」   まだ夢見心地のような声色で、そのひとは云いました。ですが、ガラス球の中にはただ水が満たされているだけで、金魚らしきものは見当たりません。  それにしても、《金魚玉》とはなんと涼やかでうつくしい言葉でしょう。きんぎょだま、と小さく呟いてから、  「金魚はどこ?」  と問うてみます。  「ここにいる」  そう言って、そのひとはまた金魚玉へ目を向けます。心もち嗄れたような声でした。  「でも、見えないわ」  「そうか、見えないか。でも、確かにここにいる」  なんとかして金魚を一目見てやろうと、私は爪先立ちでガラス球を覗きこみます。でも、どこまでも透明なガラス球には、そのひとと私の顔が歪んで映り込んでいるだけで、金魚の影もかたちも見えません。あきらめて、  「金魚の名前はなんと言うの?」  とまた問います。すると、そのひとは  「名前は無い。僕は呪いをかけるのが嫌いだから」  と云いました。私は穏やかそうなそのひとが《のろい》と発音するのがなんだか不思議で、軒端に坐る彼の横顏をまじまじと眺めました。静謐が紺青の着流しを召して具現化したような壮年の男性です。夏の夕暮れにふさわしい、清冽さと感傷とを持ち合わせたひとだと思いました。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!