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また夕風が一陣來て、私は肌寒さを覺えました。
「中に這入らないこと」
なんとなく薄晦い部屋に一人で行く氣がしなくて、そのひとを誘います。だいいちこの家は彼の家なのですから、私が勝手に部屋へ這入るわけにはいきません。
「ああ、そうしよう」
ゆっくり立ち上がった彼は、下ろした金魚玉を左手に携えます。そうして右の方の手で障子を開け放ち、
「お這入り」
と云いました。
部屋に這入って真っ先に目に着いたのは、大きな漆塗りの姿見です。あまりに鏡面が曇りなく磨かれているせいで、一瞬私と同じ白地に朝顔模様の浴衣を右前に着た人形が置いてあるのかと見紛いました。姿見の隣には、ガラスの金魚鉢が一つ置かれています。金魚玉同様、水が八分目まで満たされたのみで、金魚も何もおりません。
「何か見えたかい」
「いいえ、何も」
歪んで映る自分の顔を睨めつけて答えます。
「そうか、でも──」
「何かいるとおっしゃるのね」
そのひとの言葉に被せて云います。ガラス面に、少し笑って頷く彼が歪んで見えました。
「ああ、ちゃんといる」
彼の目には、どんな魚が見えているのでしょう。彼の世界が知りたくて、私はまたじっと金魚鉢を覗きこむのでした。
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