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第三話ㅤ祭囃子
遠くから、祭囃子が聞こえます。お囃子の音を聞くと、焦燥感に駆られるのはなぜでしょう。私だけ、置いていかれてしまうかのような焦燥感です。
「ねえ、行きましょう」
軒先で夕涼みをしているそのひとを誘います。
「いや、止そう」
そのひとは、金魚玉を見つめながら言いました。相変わらず、水が満たされたガラス球の中にはなにも見えません。
「どうして」
「行ったら帰れなくなる」
帰れなく。きわめて穏やかな表情のそのひとは、でもはっきりとそう云いました。
「なぜ帰れなくなるの」
問い直すと同時に夕風が吹き、揺らいだ金魚玉からは水が溢れそうになります。そして、表面張力がやぶれるように、そのひとが口を開きます。
「祭りに呑み込まれるからさ」
私は、お祭りの屋台が徐々に町を侵食してゆく様を想像します。見慣れた家々が林檎飴やたこ焼きの屋台に姿を変え、街灯は赤い提灯に変わります。時間はいつまでも宵で止まったまま、明日を迎えることはありません。
「ねえ行きましょう。直ぐに引き返せば大丈夫よ」
本当はお祭りに呑み込まれてもよいと思っていましたが、そのひとを引っ張り出すにはこう言うべきだと思いました。
「直ぐに引き返す気があるのかい」
苦笑とともに、そのひとは私の方を振り向きます。どうやら、お祭りに行く気になったようです。
「ええ、直ぐに帰ってもいいわ」
「それなら行こう。決して手を離さないで」
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