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7、田中、婚約(仮)する
「田中、」
「……」
寝ぼけながら手をのばす。ふれた感触が昨夜と違う、なんだかごわごわする……。
残念な気持ちでうっすら目を開けると、いきなり銀髪の老婆の顔面が鼻先にあった。触れていたのは老婆の痛んだ髪だった。現実を認めたくなくて、しゅっと手をひっこめ、もう一度目をぎゅっと閉じた。
「田中……」
なでっと、頬をなでられる感触に、喉がヒッとなる。再び目を開ける。今度ははっきりと覚醒する。
「シャワー使うなら、さっさと行かないと会社遅れるよ」
ばあさんはバスタオルを田中に渡すと、部屋を出ていった。
田中はしばし、ぼんやりした。知らない小さな部屋の小さなシングルベッドで、ぽつんと一人だった。窓からは木と枝と生い茂る緑が見えた。
椅子の上に自分の服がきちんとおかれていた。その下に黄色いワンピースが落ちていたので、拾って軽くたたみ、自分のものと同じように椅子の上に置いた。
それから猛烈に自分自身が酒臭いことに気づいた。昨夜いったいどのくらい飲んだのだろう?
バスタオルを手に、部屋をでると、浴室はすぐみつかった。
ドアを開けようとしたところ、まだ何もしていないのに勝手に扉がガラッと開いた。
現れたのは素っ裸のえんだった。
思わずその姿を凝視する。
つるんつるんだ。サル種の男の裸を初めて見た。あ、でも一部に毛が生えている。
昔保健体育の授業で習って、教室が騒然としたのだ。「そんなところにだけ毛が生えるとかサル種ってスケベだ!」と言った奴は、あとで担任からめちゃくちゃ怒られたのだった。
昨夜……。
えんの裸をしげしげ眺めながら思い出す。実際に起こったのであろう出来事がフラッシュバックする。田中がぼけっとつったっている間、えんはもくもくとタオルで身体をふき、服を着ている。
「……入れば」
「……ああ、ええと、お借りします」
記憶がまだらだ。
確か昨夜、ミホがえんの黄色いワンピースのわけを説明してくれたのだ。
えんは以前からミホの店でバイトしたがっていて、ミホが「女装で出勤するなら考えてやってもいい」と言ったところ、本当にしてきたそうだ。
「考えてやってもいい、つったじゃねえか」
「考えた考えた。はい、無理」
えんがいくら駄々をこねても、ミホは首を縦にふらなかった。
えんはすっかりへそをまげ、ワンピースをその場で脱ぎ、見事な髪とメイクはそのまま、男物のパンツ一丁にパンプスのみといういでたちでオレンジジュースをヤケ飲みし始めた。
「かたいこと言わずに雇ってあげなよ~。こんな美人がいたら、繁盛間違いなしやん」
他の客が言っても、ミホは首をすくめただけだった。
美人。
うん、そうだな、とても美人だ。
普段しばっているか編んでまとめている長い髪は、自然な感じに片方におろしており、茶色っぽいそれは、柔らかそうで、触れてみたくて。だからその指通りを楽しんだ。感覚がまだ手に残っている。
ん?
まてよ。なぜ、えんの髪をなでた感覚なんかが手に残っているんだ。犬猿の仲であるはずなのに、なぜ。
シャワーに打たれながら考えていると、そこにTシャツにショートパンツ姿のえんが、何の前触れもなくドアをあけて入ってきた。
「……え? ちょっと、ええと、」
えんは、何も言わずに田中を半ば無理やり、風呂椅子に座らせた。慣れた手つきでがしがしと頭を洗う。目に泡がはいらぬよう配慮しながら、顔もくるくると一緒に洗う。えんの手によるシャンプーは、マッサージの時同様、垂涎もののテクニックで、田中は思わず「くん」と声がもれた。
しまった! 仔犬じゃあるまいしと思ったがもう遅い、聞かれてしまった。指を通じて、えんが笑った気配がした。
いつも不愛想でケンカ腰で、口を開けば毒のあることしか言わないやつが、田中の反応を笑った。確かに笑った。
会えば噛みついてきた狂犬みたいな男の態度が軟化している。
昨夜、いったい何が起きたんだ……。思いっきり罵りあってつかみ合いのケンカをしたはずだ。
「でっかい背中だな」
えんは独り言のように言った。ふだんボディブラシでごしごし適当にやる背中の真ん中あたりを、人の指で心地よく刺激されれば、誰だってぐふうと声がでてしまう。
シャワーで、何もかも流してしまうと「はわ~」となってようやく目を開ける。そこにはえんの不躾な視線があった。
「へえ~意外と……」
イヌ種の人間は、毛がぬれるとボディラインがはっきりわかる。えんはじろじろと田中の身体を見ていた。裸が恥ずかしいという概念のないイヌ種にとって、毛が濡れた状態こそがサル種の人々のいう全裸に等しい。
思わずキャンっと身体を丸めそうになる。
風呂をでてからも、なぜかかいがいしく世話をやかれた。サル種用の小さなドライヤーで全身を乾かし、毛並みも整えられる。最終的にはすっかりサロン仕立ての男前に仕上げられてしまった。
いつかえんに貸した、もともと田中のものであるTシャツとパンツを渡されたので、それを着た。キッチンに行くと、そこには満面の笑みのばあさんが、朝食を用意して二人を待っていた。
酔っぱらって泊めてもらって、朝食までごちそうになるきまりの悪さに、田中はもごもごと礼を言い席につく。
「田中さん」
「は、はい」
ばあさんの声がどことなく緊張をはらんでいたので、田中は思わず、背筋を伸ばした。
「あんたは私のみるかぎり、女にも子どもにも年寄にも優しい。大きな企業にお勤めだし、健康で、大人で、まともだ」
初対面で襲いかかってくるあんたや、わけもなく睨みつけてくるあんたの孫に比べたらまともだろうよ、と思ったが、口には出さず神妙な顔を作った。えんは、聞いているのかいないのか、淡々と朝食をかきこんでいる。
「この子は、本当はとてもいい子なんです……どうか今後ともよろしく頼みます」
ばあさんが、前掛けで目頭を押さえている。リアクションに困っているところ、えんは「時間平気なのかよ」と田中をつつく。
あわただしくたいらげ、ばあさんに礼を言い、ばたばたと昨夜着ていたスーツに着替えた。
「田中」
「お、おう?」
そそくさと階段を降りて失礼しようとしていたところ、フアンフアーンという音とともに登場したえんの姿にぽかんとしてしまう。
えんは白いシャツにグレーのパンツを身につけていた。胸元に結んだストライプのネクタイは田中もたまに電車で見かけることがある。
えんは急に田中に向かって腕をのばす。
フアンフアーン、フアンフアーン。
ドアが開きっぱなしで、センサーが反応しっぱなしだ。以前しっぽを思いっきりひっぱられたのを身体が覚えていて、反射的に身体がすくんでしまう。
そんな田中の突き出た口を、えんは両手でがっしりつかんだ。耳が怯えでぱたんと倒れた。
さっと近づきさっと離れた。
フリーズしている田中を置き去りに、サロンのドアが閉まる。しかし、またフアンフアーンという音がして、ドアはすぐ開く。
えんはドアの隙間から、ちょっと怒っているような顔でぎこちなく小さく手を振った。ほうけながらも田中は、つい、手を振り返した。バタンとドアが閉まった。
しばらくぼおっとするが、ドアは閉まったきりでもう開く様子はなかったので、田中はのろのろと階段を降りた。
まて。
うん。
まず落ち着こう。
田中は歩きながら、考えた。
今、いったい何が起こった。
ほんの数秒前に自分の身に起きた出来事を反芻する。
何をされるかと構える田中に近づいたえんの顔。これまでの経緯から、噛みつかれるのでは、と思った。
しかし小さな口から白い歯がのぞくことはなく、かわりに赤い舌が、イヌ種と比べると本当に小さな赤い舌が、ちろりと見えた。かと思うと、田中の鼻の頭にぴとりと一瞬触れた。
えんは田中の湿った鼻を舐めたのだ。
イヌ種の人間の場合、鼻は、しっぽや耳と同様、敏感でプライベートな場所である。
つまり鼻を舐めるという行為は、大人が赤ん坊に愛情表現としてする以外は、夫婦や恋人同士が寝室でのみ行う行為だ。
そしてだいたい、あの恰好はなんだ。制服に見えたがなんかの間違いじゃ?
えっ……と、つまり、あいつってば、実は高校生?
ということは、あの不愛想、目つきの悪さ、周囲の人々がえんを見る時の見守るような眼差し。
つまり、生粋の、十代。
反抗期。
すべてのパズルのピースがはまる。田中は思わず叫んだ。
生意気な態度は思春期特有の自意識によるものであり、美容師の資格などなくて当たり前で(受験資格年齢に達していない)、酒を飲むわけない(法律違反)、保護者の顔色うかがうのももっともだ(なぜなら保護されているから)。
周りだって家業を手伝う感心な十代を、優しい目で見るにきまっている。
なぜなら高校生なのだ。子どもなのだ。
ミホだって、いくら本人がやりたいと言ったとしても、働かせるわけがない。ミホの店は、気軽な店とはいえ酒場だ。
つまり、つまりつまりつまりはそういうことなのだ。
「田中さん、なんか今日、印象違いません?」
エレベーター待ちをしていたら、次田に声をかけられた。
田中は朝からえんにシャンプーとスタイリングを念入りにされたせいで、いつもよりイケメンに仕上がっての出勤だった。ただしスーツはよれよれで、おまけに二日酔い。それがまた逆に男ぶりをあげている。
通勤電車でサル種の女子から熱い視線を感じたくらいだった。だからサル種は女子だろうが男子だろうが興味ないんだよ。そして今、ぜんぜんそれどころじゃないんだよ……。
田中は次田に昨日の出来事をぶちまけて楽になりたかったが、理性を総動員してなんとか「別に」と言った。
しかし次田は疑いのまなざしで田中を追求する。
「昨日と同じネクタイな気がしますけど」
やはりイヌ種はサル種に比べて損だと思う。いくらしれっとした顔をしても、黙っていても、耳もしっぽも不安そうにぴくぴくしているので、ぜんぶ筒抜けになるのだ。
「そうだ、久しぶりに昼でも一緒に」
「……えんちゃんとうまくいってるんですね」
「うまく? ……って、えっ?」
次田は田中の目を見ずしっぽを凝視していた。田中も自分のしっぽを確認する。
田中のしっぽは田中の意思に反して、楽し気にゆれていた。本体の田中が悩んでいるのに、能天気すぎる。
「何があったか知りませんが、うきうきじゃないっすか」
田中は、はははと弱い声で笑った。
本体が悩んでいるのに、しっぽ、お前というやつは……。
なるべく考える時間が欲しかった。
しかしそんな猶予は与えられず、向こうからそれはやってきた。
アパートの部屋の前で座りこむ制服姿を見て、田中は脊髄反射で、身を隠す。時刻は夜の8時だ。
えんは、廊下の床じかにすわり、ドアにもたれ、小さなプラスチックのスプーンで、ちまちまとコンビニプリンを食べていた。スイーツをすくっては運びすくっては運び、小さな口を無心に動かしている。
舌がちろりと見えて、田中はくらっとする。その姿は、子どもそのものだった。
田中は呼吸を整えて、どうすべきか考えるが、どうするもこうするもない。逃げも隠れもできず、腹をくくって、えんの前に立った。
えんは田中に気づくと、プリンの残りをかき集め、一気に口に流しこみながら立ち上がった。そこで一週間くらいの旅行に出かけるような大きさのバッグを持っているのがわかった。嫌な予感しかしない。
えんは何も言わず田中の鼻先に紙袋を突きだした。紙袋の中を確認すると、菓子折りと封筒が入っていた。
「どういうこと?」
「ばあさんが行った」
「……どこへ?」
「ヘブン。じいちゃんのところ」
「え……なに、天国?……逝ったのか!?」
田中がさあっと毛皮の下で青ざめると、えんは、あきれ顔で首を振った。
「じいちゃんもばあちゃんも、死んでない。それより待ちくたびれた。はやく中、オネガイシマス」
「お、おう」
棒読みにもかかわらず、反射的に部屋にあげる。えんは田中の部屋に入ると、いきなり制服を脱ぎ始めた。
なんだなんだと驚いているうちに、パンツだけになって、かばんの中身を乱暴に床にぶちまけた。何に着替えるか吟味しているようだ。そのつるんとした背中、一つにたばねた長い髪、おくれ毛が裸の肩にかかっているーーを見ているうちに、また何かを思い出しそうになる。
事態を把握できない田中は、ひとまず菓子折りと一緒に入っていた封筒を開けた。
中には手紙が入っており、その手紙には、じいさん(存命)が、大型客船内に美容院(サロンの名前が『ビューティーヘブン』)をもっていて、毎年一か月ほど手伝いに行っているという内容のことが書かれていた。そして今年は「ちょうどいい」ので、自分が不在の間、えんのことを頼むとあった。
本当のヘブンじゃなくて良かったと安堵する一方で、いや、問題はそこじゃないよな、と思い直す。
田中はすぐにばあさんに電話した。
「もしもし、……犬や猫預けるんじゃないんですから!『ちょうどいい』ってどういう、あ、電波? え、……切らないで、ま」
待ってくださいすら全部言わせてもらえず、その後何度かけてもでない。
「毎年ばあちゃんは、このくらいの季節にじいちゃんに会いに一か月くらいいなくなる」
「それで、お前は?」
「まあ人んちとかいろいろ。今年こそ一人暮らし期待したけど、危ないからダメだって」
そりゃ「痴情のもつれ」を一人にできない。
「ってことで、よろしくオネガイシマース」
「!」
田中はお願いされると断れないタイプだった。それが例え棒読みでも。
考えあぐね、とうとう勇気をだして尋ねた。
「その、聞きたいことがある」
えんは顔を上げた。愛想のない、いつもの感じだ。
「その、昨夜、俺は結構酔っぱらっていて、……ひょっとして俺はお前に何か、したか」
「した」
ぶっきらぼうな即答に、田中は唾を飲みこもうとするが、なぜかひっかかってできなかった。そこに次の砲撃。
「……あんた、俺のこと、舐めたよ」
「なっ……なめ??」
「俺の身体中、べろんべろん舐めた」
「べっ……!!」
田中はその場で崩れ、頭を抱えた。舐めただと? しかもびらんびらん? じゃなくてべろんべろん? なんてこった! なんてこった! なんてこった!
記憶がよみがえる。その肌の舌触りを。匂いを。味を。罪深いやましい気持ちを。
えんはやや猫背ぎみにぺたんと座って、田中の反応を見ている。まだ何も着ていない。裸だ。
手を伸ばせば届く距離にある肌に、田中はごくりと唾液をのんだ。
「その……ほんと、なのか? 舐めた、って……」
どこを。
髪ほど長くなかった。くらっとするような濃厚な匂い。本能をゆさぶるような甘い匂い。あれはいったい。
確かに毛を、舐めた。
イヌ種の毛とはまるで異なる、艶があってコシのある毛を舌で、流れを無視して。
「セックスした」
「セッ……」
嘘だろ……。つまり舐めた場所は、サル種の身体で唯一毛の密集するデルタ地帯……!!
田中は異種間結婚や異種間恋愛を否定しない。同性愛も。ただ自分自身はそうじゃないとずっと思っていた。
それが……なぜ……嘘だろ。あ、かつぐ気か。こいつ人のことをからかっているのか。
言っていい冗談と、悪い冗談があるぞー、わはははははと笑おうとしたが、くすりともしない真顔のえんに、笑いはひっこむ。
「……その、き、聞いていい? 君は、ひょっとして高校生、ええと、結論から言うと何才なの、かな……?」
声が完全に裏返り、随分気持ちの悪い聞き方になってしまう。心臓がばくんばくんいってる。
「じゅうなな」
うわあ! アウト!
田中は天を仰いだ。十七にしては身長高すぎだろ! 十七なら目の前で学校の課題とかしてくれよ。周囲もちゃんと教えて? 店にいて、働いてるから大人だと思いこんだ。疑いもしなかった。
ただでさえ見分けがつかないのだ。イヌ種にとってサル種は、見た目や年齢の区別が難しいのだ。
「……悪いかよ」
えんは若さをみくびられたと勘違いしたのか、とたんに機嫌が悪くなる。
いや、そういうことじゃない、そういう問題じゃない。
はっとして、指が勝手にスマホを操作する。
「未成年 性」ちがう、「未成年者 セ……」もっと違う、これだと未成年とやりたくてたまらないみたいだ。そうじゃなくてこのエリアの条例が知りたい。
「何調べてる」
「ひっ」
知らないうちにえんが、画面をのぞきこんでいた。はっと我に返って、いったんスマホを置いた。違う、まっさきにすべきは保身じゃなくて、事実の確認と謝罪だ。
「ちょ、とにかく、すまん。確認させてくれ。その、気を悪くしないでくれ。その、本当に……俺たちは、その、アレを、アレして、しまったのか」
えんは無表情だった。
「ごっ、ごめんなさい」
その場で土下座した。田中は額が削れるくらい強く、床に頭をすりつける。
えんはそんな田中の背中に、どすんと座った。
「ふぐっ」
「なんで謝るんだよ」
「なんでって、そりゃ、俺が100%悪いからに決まっている、ぜんぶは記憶にないが、断片は覚えてる……」
えんは、大きな身体をこれ以上ないほど小さくする田中の背中に体重をかけた。
「へー、あんなにねちっこく全身なめまわしといて、断片しか覚えてないんだ。ふーん」
田中の困惑はピークで、どうしてこんなことになったのだろうかと、その分岐点はどこだったのかと、これまでの出来事が走馬灯のように頭をかけめぐる。
地獄、そうだジグ・オークの扉を開けた。そこからすべてが始まった。地獄の、磁場。
「謝ってすむ問題じゃないのはわかってる」
口がうまく動かない。
「『エリートイヌリーマン、サル種の男子高校生に淫行』」
えんは意地悪く田中の耳をひっぱって、ふっと息をふきかけ、ニュースのタイトル風に言った。田中はドッと汗をかく。
「犯罪者にならない方法、教えてやろうか」
えんはにやっと笑って、ごにょごにょと耳打ちしてくる。田中はそれを聞いて声が裏返る。
「け、結婚……!?」
目を白黒させる田中に、えんは、けけけとばあさんそっくりの笑い方で笑った。
「結婚前提ならいくらセックスしてもこっちじゃ罪に問われない。あんたに拒否権はない。かわいそー、一回ヤッたくらいで異種同性婚しなきゃならないなんて気の毒ー」
悪いのは自分だ。どんな償いでもする。しかし結婚は想定外中の想定外である。謝罪や慰謝料を請求されたり、罵られ訴えられるのではなく、結婚。
「全身全霊かけて嫌われているのだな」と、田中は思った。しかし同時に、違和感がふっと胸にしのびこんでくる。
ん? ちょっと待てよ。
すっと冷静になって、むくりと起き上がると、急に動いたものだから、田中の上に乗っかっていたえんは、大きくバランスを崩した。そんなえんを、小さい子を抱っこする要領で脇に手をつっこみ、ひょいっと持ち上げる。こちらに向かせた。
二人至近距離で向き合うと、いつなんどきもしれっとしているえんが、すっと目をそらした。
田中は逃がすまいと、えんの視線の先にまわりこむ。すると嫌がるえんは反対をむく。田中がさらに追いつめると、最後は真後ろに床に倒れた。
田中は仰向けになったえんの顔の両サイドの床に手をつき、おおいかぶさる。顔がものすごく近いし身体もぴったりくっついているが、この場合、気にしてはいられなかった。
「お前さ、お前ひょっとして」
えんの瞳に動揺がちらりと影をさした。その視線を今度は逃さない。田中は思ったことをストレートに口にする。
「ひょっとして俺のこと、好き、なのか……?」
半信半疑で言ってみると、えんは、悪事を認める子どもみたいにぼそっと言った。
「だったとしたら、何だよ。悪いかよ」
それはこれまで何度も聞いたことのある不貞腐れたような口調、態度だった。なんでそんなことを言わせるんだ、とばかりに、睨んでくる。
その顔が、目元が、心なしか赤らんでいる。こんなに感情がすけてみえる薄い肌。イヌ種のしっぽなど比ではない、それはとても不都合なものだと田中は思う。
「好きなら、なぜ睨む?」
えんは動揺を隠すように床におちていたリモコンを拾ってテレビをつけた。テレビではクイズ番組をやっていた。「正解です!」と司会者が言う。拍手がおこる。田中はリモコンを取り返し、テレビを消した。
「いつから、なんだ?」
「知るか」
えんはすっかり逆ギレモードだった。
「俺はお前から好意を感じたことなんか一切……あっ」
言いながらはっとした。好意。好意? あのマッサージにシャンプー、怒ってばかりの態度、鼻にキス。
田中は頭をかかえた。
「なんで俺だ」
「……こっちが聞きたい。お前が先なんだからな! お前が先に俺のこと好き好き言った」
え、どういうこと? と思っていると、えんの視線の先、部屋の窓ガラス、もうすっかり夜になっているのだが、鏡のように自分とえんの姿をうつしていた。そこにうつる自分を見て田中は驚く。
えんに覆いかぶさった状態の田中のしっぽが、ぶんぶんと激しく動いている。
この無作法でぶっきらぼうですぐ睨んでくるサル種の若い男を前にして、自分のしっぽがこの状態。
自分だけ気づかなかっただけで、えんと一緒の時、常にこの状態キープだったとしたら、本人にも周囲にも誤解されないわけがない。
田中の意思じゃないが、100%好意の表れにしかみえない。
田中は卒倒しそうになった。
「うちのババアに優しかった」
「へ?」
えんは淡々と続けた。
「ババアがあんたをストーカーと間違えてひどいことをしたのに、ぜんぜん怒らなかった。女の人にも、子どもにもおっさんにも。俺が大変な時、階段のあの時も、助けてくれた。昨日だって、つっかかってくると思えば、俺の事、美人だって」
黄色いワンピースと長い髪。きれいだった。本当にそう思った。だから、酔っぱらって口走ってしまったのだろう。
誤解だ、と言いたくなるが、何がどう誤解なのかを田中自身うまく説明できない。
何か言わねばと口を開きかけるが閉じる。それを何回か繰り返す田中に、えんは、束ねていた髪を乱暴にほどく。唐突に腕をのばした。田中の首にかじりついた。
えんに覆いかぶさるようにしていた田中は、突然そんなことをされ、ますますえんの上に乗っかるかたちになる。
「うお、こらっ、ちょっと待っ」
窓ガラスにうつった姿が目に入る。冷静になり、血の気がひいた。田中がえんを襲っているようにしかみえない。
「責任とれよな」
えんは田中の耳に顔をおしつけた。田中の耳は完全に二つ折りになってつぶれる。
「……あ、え……、は、はい?」
「結婚しか逃げ道、ないんだからな」
「は、はい」
田中を抱きしめるえんの腕の力がいっそう強くなって、喉がしまった。
ええと、なんだ。これは。本で読んだことあるぞ、あるある知っている。
さまよった旅人がたどりついたあやしい家、最終的には魔女だか、もののけに食われてしまうやつ。童話やおとぎ話は教訓と学びだらけだ。
地獄の美容院。隙あらば襲いかかってくるやたら敏捷な老婆と、長い髪の、目つきが悪い、口を開けば罵倒してくる甘い肌をもつトラブルメーカー。
「さ、やろうぜ、昨日の続き」
「うえ?」
えんは結局服を散らかしただけで、まだ、ただの一枚も服を身につけていない。先ほど自らほどいた長い髪が、裸の肩を申し訳程度に隠しているのみである。
そして床の上で田中と絡み合いながら、身体をねじり、最後の一枚すらも脱ごうとしている。田中はそれを阻止した。
「ダメダメダメダメダメダメダメ!!」
「なんでだよ。もう一回ヤってんだから、同じだし、さっきからこの体勢、ヤるしかねえって感じだろ」
「ダメなもんはダメだ! 未成年!!」
「責任とるって言った」
「せ、責任はとる、だが、ヤらない」
「なんだそれ、何もったいぶってんだ」
「未成年とは、そう、俺は未成年とはしません! 十八歳、うん、十八歳になってからだ」
「はっあ? 先すぎるだろ?」
「ダメ十八歳、いや二十歳」
「なんで増えんだよ」
「ダメ!!」
「意味わかんねえ!!」
おかしい。サル種はだめだったはず。男もダメだったはず。それがそんなものをやすやすと越え、結婚の話に、年齢だけの問題になっている。おかしい。
これが「痴情のもつれ」か。魔性というやつか。
田中はわけわからないまま、怒鳴っていた。
「その前に、お前! 人んちで裸になるな! まずちゃんと服を着ろ!」
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