5、地獄の磁場

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5、地獄の磁場

「邪魔」 「うるさい、お前がよけろ」  田中は大きな身体をまるめるようにして計算ドリルの採点をしていた。えんがどんっとぶつかって、赤ペンでの丸つけが歪む。 「てめっ、ゴラア」と低く吠えるが、えんは知らん顔で振り返りもしない。  田中はぐるぐると唸り続ける。ムカつく。今度同じことをしたら絶対転ばせて痛い目に合わせてやる。 「わー、なんかすっかりなじんでる。おまけにガラも悪くなってるー」  田中はフアンフアーンとドアをあけた開口一番、ミホに言われるまで、なんのことかわからなかった。  しかし自分の今の状態をかんがみるに、小学生の宿題をみてやりながら、はげちらかしていてすぐ爆睡するおっさんと将棋盤をはさんだりと、確かにこの環境に同化している。とりこまれている。 「最初はパリッとしたエリートサラリーマン風だったのにね、田中。ジグ・オークの磁場にのまれちゃって。毛づやはいいのに、なんか……くふふ」  地獄の磁場。言いえて妙だ。  あれから田中は、怒りにまかせて「ジグ・オーク」に乗りこんだのだった。一度ならず二度までも助けてやった。恩を仇で返され大人しくしているわけにはいかなかった。あろうことか、急所である尻尾に乱暴するとは。なんなら傷害罪で訴えてやる。  すると、今日は忙しいから予約がないと無理だねと、普通に仕事の顔でばあさんに断られた。  その日は平日だというのにミホのほかにも嬢が四人もいて、ばあさんもえんも盛り髪を作るのに忙しそうで、目も合わせてくれなかった。それならしょうがないとすごすごと帰った。  次の週末に律儀に予約をいれて訪れた時には、5人も小学生の先客がいて、大人しく待っていると、初めて間近に見るイヌ種に興味津々のキッズたちが「わーイヌしゅのひとだー」「もっふもふだー」とからまれた。  気づけばいつの間にか宿題をみてやるはめになっており、そうこうするうちに、おっさんに将棋の相手を頼まれ、やっと自分の順番がまわってきた時には、文句を言おうにも怒りはすっかりクールダウンしてしまっていて、ばあさんに「田中さん今日どうする、カットはまだ平気だね。スカルプケアとマッサージいっとく?」と言われるがまま、天敵であるえんの指にまた気持ちよくされてしまった。  つまりミホの言葉どおり、磁場にのまれた。  なにがどうしてこうなった。  もともと、こんな雑な環境好きじゃない。貴重な休日を使ってヘアサロンに行くなら、日常を忘れさせてくれるような洗練された所に行きたい。確かな技術と細やかな接客で、身も心もリフレッシュしたいのだ。  しかし現実はというと、小人の置物的センスに慣れつつある自分がいる。  田中は苦虫をかみつぶしたような顔で、人に採点を頼んでおきながら遊びに行ってしまった小学生のバッグに、計算ドリルをねじこんだ。 「悪い。ちょっと見てて、うちのハンサムボーイ」  そうしているそばから、ミホに赤ん坊をぽいと渡される。赤ん坊はこっちが心配になるほど人見知りしない。湿った小さな手で田中の毛の感触を不思議そうに触っている。 「田中、今日、このまま店まで送ってよ。どうせこの後予定ないんでしょ。わたし今日、荷物が多くてさ~」  ばあさんがうきうきと目くばせしてくる。状況から判断するに、ミホはサル種の中でもきれいな女であるようだ。しかし田中はサル種の女性をなんとも思わない(もちろん男性も)。 「おい、てめ、ミホの店に行ったら殺す」  えんは田中にしか聞こえない声で、すれ違いざまに凄んでくる。 「殺す」って……なんなの? 子ども? 田中は一気に脱力した。  あの日貸した服も返してもらっていない。もちろん礼も詫びもなし。あげくこれまで以上にケンカ腰だ。しかし忌々しいことに、その指は確実に丁寧に田中を快楽につれていく。まったくどうすればいいのか。  納得がいかない。  田中はえんの言葉を無視してミホと一緒に店を出た。それを見たえんが大きく舌打ちし、やっぱりすごい目で睨んでくるので、そうそうにドアを閉める。 「なあ、聞いていいか」 「うん?」 「あいつ、昔からああなのか」 「えんちゃん? えんちゃんはいい子だよ。今は、ただの反抗期」 「挨拶レベルの社交もできんのか」 「そういうのしたくない時期かと」 「時期、て……、」  何ひとつ納得のいかない顔の田中に、ミホはぜんぜん違う話をする。 「昔はねえ、超おしゃれだったんだー、『ジグ・オーク』。じいちゃんが、あ、ばあちゃんの夫さんね、じいちゃんがやっていた時は、子どもなんか近寄れない感じだった。  でもわたしは今の方が好き。愛想のないえんちゃんと、下世話で早とちりなばあちゃん。雑な環境、正解じゃない感じ。髪もSNS映えしそうな面白いの考えてくれるし」  田中はうなった。  ミホが言うことも一理ある。数日間見ていて思った。  戦略など皆無にみえる商売は、この界隈でなら固いビジネスだ。  サービス業のくせに、客の扱いが適当だ。しかし小さい子どもがいようが、年をとっていようが、身体の調子が悪かろうが、当たり前のように受け入れる。のぼりにくい階段はバリアフリーとは言い難いが、えんや他の客が助けるので問題はない。  田中だって経験があるが、気持ちが落ちこんでいたり体調が悪い時は、きらびやかな場所は疲れてしまう。雑な店構えのジグ・オークはそういった人々の受け皿になっている。  もちろん、欠点は気が遠くなるほどたくさんあって、うちの一つが、よそものが入りにくいという点だ。  にもかかわらず、ジグ・オークは、いったん入ってしまえば抜け出せなくなってしまう蟻地獄でもあった。  それは一言でいえば、よその家のこたつ。  最初は敷居が高い。なんだか居心地悪い。そのはずが、気づけばすべてうやむやになってくつろいでミカンに手を伸ばしている。    全ては、店長兼トップスタイリストのばあさんの人柄によるものだった。  一方で、孫のえんは誰にでも平等に不愛想である。 「えんちゃんて、なんか憎めないしかわいいじゃん。あんな態度なのに店手伝って、ばあちゃん助けて髪のばして、モデルやって、超けなげ。思いやりもあるよ」  それは田中も否定しない。  えんが人を助けるのを何回も見た。  一度など通りがかりの子どもが投げたフリスビーが、店を守るように枝を伸ばしている樫の木にひっかかり、登ってとってやっていた。  木は地域の保存樹木に指定されているほどの大木で、えんは二階の窓から木にうつり、長い手足を器用に使って、上の方まで登り、黄色い円盤を地上に落とした。  その間、ハラハラしているのは田中だけで、みなちっとも心配しない。人種的な傾向として、サル種は高所が比較的得意だ。イヌ種は、だいたいの人間が木登りなどごめんである。  えんちゃんは子どもの頃から木登りがうまいから平気だよ、と説明をうけるが、恐ろしいものは恐ろしい。見ていられない。 「おまっ、なんという危険な、落ちたらどうする」 「落ちるわけない。木の下でわんわん吠えるな。うるせえ」  やっと地上に降りてきたえんは、この態度だ。フリスビーをとってもらった子どもがお礼を言いにきても、わかるかわからないかくらいの動きで首を縦にふっただけで、子どもと目も合わせない。  田中は、おしい、と思う。悪い奴ではない。もっと愛想よくしたら、もっといいのに、と思うのだ。これでは損をしている。  そんなことを考えている田中の隣で、ミホは、「わたしも孫とは、ばあちゃんとえんちゃんみたいな関係になりたいなあ」と言い、えへへと笑った。 「随分先の話だな」 「いやいや、孫」  ミホは赤ん坊のほほをつつく。 「……孫?」 「孫」 「えええええええっ!?」 「うはははははは」  これがミホの孫ということは、つまり孫を生産した大きい娘か息子がいるということだ。頭の中で計算がかけめぐる。  田中は、サル種の美醜がわからない点については前々から自覚があったが、年齢すらわからない、と気づかされショックを受けた。サル種の年齢は、服装やしゃべり方で判断するしかない。イヌ種なら毛ヅヤで一発なのに、サル種、難しい。 「あ、そうそう、田中んとこの後輩の子も、かわいいよね~。今度あの子も連れて飲みにきなよ~。サービスするよ?」 「う、うむ?」  田中はなんのことかわからず、疑問符いっぱいの顔でミホをみる。 「ほら、髪の毛くりくりふわふわの子。すっかりえんちゃんのファンって感じだよね」 「へ?」 「えんちゃんったら、ほんっと次から次へと。愛想オフでもこれなんだから、困った魔性ちゃんよね!」 「えんちゃんならこの前も会いましたよ。お店も行きました。シャンプーしてもらいました」  朝、次田の姿を見つけて、ジグ・オークの話題をふると、けろっと白状した。  毎日のように顔を合わせているのに、こんなこと、一言も聞いていない。  イヌ種同士なら、耳やしっぽのふるまいからわかる。次田も所詮は裏表のあるサル種なのだった。 「……『えんちゃん』とはいつから」 「そうですねえ、あの階段の件以来、がぜん興味がわいて」  次田は涼しい顔だ。 「あんなきれいな顔の子が、毒舌ってちょっとぞくぞくしますよね。そういう子を時間かけて手なずけるのって楽しいかもしれないって思ったんです。しかもすっごいフィンガーテクがあるわけで。なるほど田中さんも虜になるわけだ」 「虜」?「フィンガーテク」?  次田ってこんなキャラだったっけと、唖然とする。次田といえば明るくかわいく、素直で元気。それが「手なずける」、だ。 「いや、別にいいんだが。その、」 「田中さんのテリトリーですもんね。気を悪くしましたか」  テリトリー。今度こそ、はっきり刺された。だが、その笑顔が意味するところがなんなのか、田中にはわからない。 「田中さん、この際はっきり言いますね。俺、えんちゃんにとても興味があります。好きになっちゃったかもです!」  さまざまな人の話を集約すれば、えんはトラブルにまきこまれるのも納得の美しい見た目で、ミホに言わせれば魔性、だ。  それがまさかの次田が餌食。田中は震えた。ってか、次田、お前ゲイなのか?  思いめぐらしながら、田中は引き続き明るいトーンで冗談めかして言ってみた。 「あいつ、『痴情のもつれ』って言われてるぞ? お前なら、他にもっといい奴がたくさん」  次田は、すっと表情を凍らせた。 「俺がえんちゃんを好きになったらまずいですか」 「えっ、いや、そんなことは」 「なんですか」  男、だ。しかしそれを言うと差別になる、と思い、慎重に言葉を選ぶ。 「挨拶すらまともにできない奴なんだぞ」 「えんちゃんは男、年も離れている。なにより田中さんとは人種が違う。田中さんの好みとはぜんぜんはずれますよね」  俺の好み? 「田中さんおかしいですよ、田中さんの好みはたれ耳でブラウンの毛色のロングヘア美人でしょ? えんちゃんは美人だし髪は茶色のロングではあるけれど、耳はたれていません」  話しがまったく見えず、田中はバカみたいに次田を見つめ返す。 「いいですか? 耳は、たれて、ま、せ、ん!」  次田は言いたいだけ言ってしまうと、走り去っていった。田中はどうしていいかわからず、その場をぐるぐるとまわった。そしてはっとなり、誰にともなく弁解してしまう。 「ちがっ、決して自分のしっぽを追いかけていたわけじゃ……っ」  混乱のあまり、おおーんと叫んでしまい、それは結果的に恥の上塗りとなった。
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