老先生と私

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「仲良くやっとるならええやないか。今年で20歳になるんだったか、せがれは」 「ええ、この間なりましたよ」 「そうかそうか。子供の成長ってのは早いもんやな」 「本当に」 「な」  木津川先生はからりと笑うと、白いシーツの上で、しわの刻まれた手をさすった。 「大学にも慣れて、サークルで遊びまわってるんやろ」 「サークルはやめて、部活に入ったんですって、バスケの」 「ほー、部活か。気合入っとるな」 「サークルで適当に遊んでてくれた方がよかったですよ、最近全然帰ってこないんだから」 「そら無い物ねだりっちゅうもんや」 この辺りでは珍しい、ばりばりの関西弁。昔から、それを隠そうとするどころか、むしろよく通る声で、よく喋る。今年で81歳になるが、「若い頃はさぞ」と思わせるガタイの持ち主だ。実際ピーク時の身長は百八十センチをゆうに超えていた。とにかく迫力があって怖かったのを覚えている。 木津川敏雄名誉教授は、日本思想史研究の大家と呼ばれる大物だ。 今も81歳とは思えぬ覇気を見せてはいるが、入院着からのぞく手首は、会うたびに細くなっているように見える。入退院を繰り返すようになったのは、一昨年の冬くらいからだっただろうか。 「それで、こちらが昨日届いたものです」  気を取り直して、私は鞄の中から紙袋を取り出し、ベッドに備え付けらえた小さなテーブルに載せた。 「おう、ぶっといなぁ」 「そりゃそうですよ」 先生は最初の入院と同時に、「もういつ死ぬかわからへんからなぁ」と、自身の未発表の研究成果の書籍化を検討し始めた。かんかんがくがく、半ば喧嘩のような会議と編集校閲作業を重ね、ついでに私は印刷所と本気の喧嘩を重ね、昨日ようやく見本が上がってきた。今日は、初稿修正が終わる頃から病院からほとんど出られなくなってしまった先生に、「担当責任編集者」として見本をお届けに参上したのである。 「表紙と裏の色はこれでよかったんですよね?」 「ああ、ありがとう。迷惑かけたな」 「とんでもない。でも珍しいですね、先生がこんな明るい色を選ばれるなんて」  先生がこれまで出してきた本の表紙は、青や紺を取り入れたものが多かった。だが今回の表紙は、白をベースに、タイトルの周りを赤いふちで太く囲んだもの。表紙の裏はえんじ色が張られている。 「たまにはええやろ」 「ええ、新鮮ですね」 「もう何冊か上がってるなら、あの一人静かなやつにも渡してくれんか」  一人静かなやつとは、私がもう二十年も一緒に生活している佐藤「一静」さんのこと。木津川先生は一静さんの師である。 師弟関係は頗るいいようで、先生は事あるごとに「あの一人静かなやつは」と口にするし、一静さんは未だに「先生にぶん殴られる夢を見た」と青い顔で降りてくることがある。ただ、数年前、一静さんが入院中の先生の世話役を買って出た時には、当の先生が完全に拒否してしまった。最近はメールも電話もせず、連絡は專ら手紙かはがきだと聞いた。彰人が「ペンフレンドかよ」と呆れていたが、何かと不便で周りに気も遣う入院生活では、仕方のないことなのだろう。 「渡すのは構わないですけど、私、あの人から先にお金預かってますよ。出版されたらすぐ欲しいって」 「あぁ? あいつまたそんなアホなこと」 「謹呈してくださるわよって言ったんですけどね」 「お前のへそくりにでもしておけ」 「そんなこと出来ませんよ」 「ほんなら、せがれにいい靴でも買ってやれ」 「じゃあそうします」  間髪入れずに返事をすると、先生はふはっ、と吹き出した。 「相変わらず子煩悩やな」 「私だけじゃありません、一静さんだってそうですよ。彰人のバッシュ買ったって言ったら多分喜びます」 「そうやなぁ。あいつが大きくしたようなもんやからなぁ」 「……まあ、そうですね」  大学院で一静さんを研究者に育て上げた木津川先生は、私のことも19のときから知っている。私が大学一年生だった時、先生は同じ大学で退官前の最後の一年を迎えていた。 「そうだ、写真、ご覧になりますか。彰人がバスケしてる写真。この間大学で大きな試合があったんですよ」 「ほぉ」  大学一年の夏、私の母は事故に遭い、しばし生死の境をさまよった。幸い一命をとりとめ、大きな後遺症も残らなかったのだが、母の施術の間、私は生きた心地がしなかった。すでに父は母と離婚して行方知らずになっていて、私は母の施術中、「一人になる」という恐怖に全身が沈んでいくのを感じた。 長い夏休みが終わり、祖母に尻を叩かれてようやく大学に行った私は、偶然先生の講義に出席した。 その時、つい最近味わったばかりの死の空気を感じた。 私はそれまでほとんど関わりのなかった先生の研究室のドアを叩き、尋ねた。 ――木津川先生、最近どなたか、……病気とかされませんでしたか。    その時の先生の顔は忘れない。  私の母が生死をさまよっていた頃、先生の唯一の師であり、たった一人のお父様が、亡くなっていた。
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