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「ああ、大きくなった。顔は相変わらずお前そっくりやな」
彰人の写真を渡すと、先生は目を細めながら低く笑った。
写真に写る彰人は、右手でドリブル、左手で遠くを指さしながら走っている。チームメイトが撮ってくれたベストショットだ。
「筋肉もついて、すっかり男になったな」
「まだ背が伸びてるみたいなんですよ」
「そこはお前に似んかったんやな」
「あと、一静さんから、学会の集合写真も預かってます。谷井先生が講演されたんですって」
「谷井? あいつまだ生きとったんか」
「お元気ですよ」
写真を渡すと、先生は今度は途端に嫌な顔をした。
「老けたな谷井ーっ」
「そりゃまぁそうでしょう」
「……今、そらお前もや思たな」
「思ってません」
「いいや思った」
「思ってません」
先生に渡した写真は、学会でよく見かける光景を切り取ったものだ。真ん中に谷井名誉教授――木津川先生より少し年下だったはずだ――が座り、その周りを学会の理事会メンバーらしき先生たちが、ほろ酔いの顔で囲んでいる。その外側に、カメラから少し目線を外して微笑む一静さんが立っている。
「こいつも大分老けた。もう50か。そら俺もこないなるわな」
「お会いにならないんですか」
「ああ、会わん――……ん?」
一緒に渡した写真に気づき、先生が声を上げた。
「これは――……」
学会の写真の下に、そっと忍ばせた写真だ。きっと、一枚だけじゃ見てくれなかったから。
写る二人の男は、どちらもカメラを見ていない。
撮った場所はなんてことない、うちのリビングである。
「あのね、この間、新しいスーツを買ったんですよ」
私は出来るだけさりげなく聞こえるように言った。
彰人の成人式用のスーツを見に行ったとき、二着買うとお得だと言われ、一静さんも一緒にスーツを新調した。帰ってきてから、「もしかしたらサイズが一緒かも」と交換試着したときの写真だ。二人とも確かに着られないことはなかったが、やっぱり彰人が一静さんのパンツを履くとまだ少し裾が余るし、一静さんが彰人のジャケットを着ると何となくだぶついて見える。バスケに再度情熱を燃やし始めたハタチの筋肉は侮れない。二人が余った布を引っ張って笑っている所を、何となく撮ったものだ。
「二人一緒に写ってるの、あんまりないから。ご覧になるかなと思って」
「ああ……そうやな」
それから先生は、しばらく黙って写真を見つめていた。
木津川先生は一度も自分の家庭を持たなかった。若い頃からひたすらに研究に打ち込み、恐ろしいペースで論文を書き、本を出し、学生たちの指導にも力を入れた。ただその厳しさは有名で、昔から先生のゼミはあまり人気が出なかったという。
「親子、っちゅーか、兄弟みたいやな」
ぽろりと、小さな声が、こぼれる。
「一人にならんで、ほんまによかった」
一静さんは先生に正面から食らいついたほとんど唯一の学生であったらしい。当時からこの師弟を知る教授たちは、「師弟っていうか、なんかもう親子みたいだった」と今でも笑う。一静さんも先生に負けず劣らず熱心に研究に打ち込み、若くして博士号を取得、研究職に就く。彼が積み上げてきたキャリアは、まさに群を抜いていると言っていい。
ただし、その間に彼がかなぐり捨てたものは決して少なくない。そのことを、先生はずっと気にかけていたようだった。
「一静さんは、一人じゃありませんよ」
私は先生の手元を見たまま言った。
「先生がいらっしゃるじゃないですか」
先生はふ、と笑う。
「この先はわからんからな。俺は必ずあいつより先に死ぬ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「俺もあいつの親も、必ずあいつを置いて死ぬ。お前がいて、彰人がいて、あいつはほんまに助かったと思うわ」
ま、それは俺もやけどなぁ。
いつものようにからっと笑う先生を、私は見ることが出来ない。
「おっと、悪い、そろそろ看護婦さん来はるわ」
白いシーツに落ちる日の光が、いつの間にかオレンジ色を帯びてきた。廊下を早足で歩く音が聞こえる。夕方の検査と食事の時間だ。私は慌てて立ち上がった。
「すみません。すっかり長居しましたね。これで失礼します」
「ああ、気を付けてな。今日はこのまま帰るんか?」
「いえ、会社寄ります。見本取ってから帰らないと」
「なんや、それだけのために会社戻らんでもええやろ。そない急がん」
「いや、でも」
「謹呈の手紙書いたろ思ってたから、渡すんはその後でええ。今月中に渡してくれたら十分や」
「……わかりました」
木津川さーん、と、可愛らしい声がして、若い女性の看護師がドアの隙間から顔をのぞかせた。
「ごめんなさい、もう出ます。じゃ先生、また伺いますね」
「おう」
先生に背を向け、ちょっと困った顔の看護婦さんに会釈して、病室を後にしようとした時、
「香織」
先生が私の名前を呼んだ。
「せがれたちを、頼む」
「……はい」
私は背を向けたまま返事をして、まっすぐにドアを抜けた。
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