老先生と私

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 一人になる恐怖を感じた19歳の私と、一人になってしまった59歳の先生。私たちの望みは、簡単に言うならば、「利害が一致」した。それでも渋った先生を押し切ったのは、間違いなくこの私だ。   一静さんと私が出会ったのは全くの偶然だったが、今日、彼をも巻き込んで、私たちの、いや、私の望みは叶い続けている。 ――そう、わかっている。あの子は私のエゴの塊。  ずんずんと沈んでいく日と競うように、私は無心で足を動かした。駅にちょうどやってきた特急電車に飛び乗り、仕事帰りのOLたちに挟まれながら、過ぎていく景色を目で追いかける。   別に急ぐ必要はない。むしろいつもより早い時間だ。スーパーは昨日行ったばかりだし、今朝わざと多く作ったおかずがあるから、夕飯の準備もすぐに済む。というか、今日は彰人、帰ってくるんだったかな。最近本当に部活三昧で、合間に授業とバイトに行っている感じだ。全く顔を合わせない日も珍しくない。今夜も一静さんと二人きりだろうか。 ふぅ、と、周りに聞こえない様に気を遣いながら、静かに息を吐きだす。  今朝一静さんには病院に行くと伝えたから、帰ったら先生のことをひたすら聞かれるのだろう。先生は初めての入院から、本当に一度も一静さんに会っていない。理由は「こんな俺を看たら下の世話まで始めそうやから」だそうだが、ヘルパーさんだけを頼りにしている今の状況はとてもよいとは言えない。下の世話まではいかなくても、もう少し一静さんや私を頼ってくれればと思うのだが。 『次はー、白坂―、白坂―』  うちの最寄り駅は、病院の最寄りから快速電車で三駅。たったこれだけの距離なのに。何も言わないが、一静さんは歯がゆい思いでいるに違いないのだが。 ――押し掛けてしまったほうがいいのかしら。 もどかしさが募った私に、一静さんは、それだけはだめだと答えた。へそを曲げたら本気で行方をくらましかねないと。さすがにそんな馬鹿なこと、と返そうとして止めた。先生のことは彼の方がよく知っている。  白坂駅で電車を降り、明かりのつき始めた商店街を抜ける。  全国チェーンのファストフード店の前で、大学生らしい男の子たちが何やら楽しそうにはしゃいでいる。我が家もよくお世話になるスーパーの前では、若いお母さんたちが子育ての悩みを打ち明けあい、年配の奥様達は世間話に花を咲かせる。ねえ、駅裏の保育園、今保育士が足りないらしいよ。そうなの? 困るな、来年から下の子も預けたいのに。ねえ、あそこの次男くん、〇商社に入るんですって。あらそうなの、すごい、うらやましいわ。ねえ、ほんとそう。うちのは大学行ったのはいいけど、遊んでばっかりで困ってるのよ。就職するつもりはあるのかしらね――  商店街の端には、これまた全国チェーンのスーツ屋さんが店を構えている。この間彰人と一静さんがスーツを買った店だ。あまり大きくはないが、レディースも扱っているし、細かなサイズ直しもすぐにやってくれるので、私もよく使っている。ショーウィンドウには細身の男性用スーツが並び、「リクルート特集」と書かれた吹き出しが踊っていた。リクルート、ね。来年の今頃には彰人も就職活動を始めているのだろうか。それとも、仲良しの義父と同じく、大学院に進みたいとかいうんだろうか。  ……そうなったら、もう少し家にいてくれるかな。  商店街を抜ければ、家はもうすぐだ。いつもより少し早足になっているのを感じながら、薄暗い道を進む。  玄関に入ると、一静さんの革靴に並んで、彰人のスニーカーが脱ぎ捨てられているのが目に入った。何だろうか、別にばらばらになっているわけではないのに、「捨てられて」いると形容したくなる雑さ。彰人は私の性格を漏れなく受け継いでしまっている。せっかち・おおらか・大さっぱ。嬉しいような悲しいような。  洗面所へ向かう途中、左手のリビングから話声が聞こえた。すりガラスのドアの向こうに影。二人ともいるなら、早く夕飯にしなければ。私はドアを開けた。 「ただいま。お父さんも彰人も、今日はうちでご飯でいいの」 「うぉわあぁっ」 「わっ」  予想外の出迎えに、私まで思わず声を上げた。 「びっくりした、何よ二人とも、大声で」  ジャジー姿の彰人が、リビングの三人掛けソファに、こちらに背を向けて座っていた。向こう側の低い椅子に、こちらもラフな格好の一静さんが座っている。何だか知らないが、二人とも私の顔を見て、妙に焦った様子だ。あやしい。 「お、お帰り、母さん」  やっべぇ、と書いた顔をこちらに向けて、彰人が言った。一静さんはただ口をもごもごと動かしている。  二人の間のテーブルに、何かある。私が大股でリビングに踏み込むと、彰人は慌てて立ち上がった。 「今日はずいぶん早いんだな」 「著者の先生の所に寄って直帰だったのよ。二人ともいるならちょうどよかった」 「へええええ、そうなんだ。えっと、今日早く帰ってこれたから、父さんと適当に鍋でもしようかって話してて…」 「そこをおどきなさい」  ひっ、と彰人が小さく息をのむ。  その脇からテーブルをのぞき込むと、たまに本屋の店先やテレビCMで見かけるカラフルな雑誌が、ででんと鎮座していた。 「これ……は…」  つい「ででん」と表現したくなる、圧倒的な存在感。某週刊少年漫画雑誌ほどは分厚くないし、うちの出版社が出してる研究書よりもずっと安いのに、重量感は桁違い。若い男性の中には「色んな意味で凶器」と言って恐れる人も少なくないという、あの伝説の結婚情報誌が、見慣れたテーブルを占拠している。 ――こんなに近くで見たの、初めてだわ。  いやいやいやそうじゃなくて。  結婚? 結婚するの? 誰が? 彰人が? いや、彰人に女の影があればすぐわかる。だったら一静さんが? 彰人も成人したから、ここを出てくってこと?  そもそも血縁上も戸籍上も、一静さんは家族じゃない。そうさせたのは私だ。関係ないのだから、無理に彰人の面倒を看る必要もないし、私に同情する必要もない。もう十分すぎるほど助けてもらった。責任感の強い一静さんだから、本当は結婚したい相手がいたのを、彰人の成人まで黙っていたのかもしれない…… 「違うんだ!」  と、彰人が再び私とそれの間に割り込んできた。 「いや、えーっと、違くもない、けど、いや違う違う、違うんだ、これは、ちょっと用があて……」  焦って怯えたような彰人の顔が、不審と困惑の顔に変わっていく。 「彰人」  と、しばらく黙っていた一静さんが立ちあがった。 「何やってるんだ。母さんも、突っ立ってないで早く着替えておいで。これはね」  長身の体を曲げ、ぽん、と分厚いそれを軽く手でたたき、 「鍋敷きだよ」 「えっ」  向けられた笑みに、私と彰人は同時に声を上げた。  ……な、鍋敷きだぁ? 「まだちょっと早いんだけどさ、今日急に鍋が食べたいなと思ってね。でもうちの鍋敷き、結構古くなってただろう?」 「ああ、まぁ、そうね……」 「買って帰ろうと思ったんだけど、季節外れだし、まだ売ってなさそうだったんだよ。そしたらこれが大学に落ちてて。誰か学生がふざけて買って捨てたんだろうな。で、分厚くて鍋敷きにはちょうどいいと思って拾ってきたんだ。使い終わったら捨てればいいし」 「あ、そう、なの……」 こういう、ちょっと焦ったり困ったりした時の一静さんはとにかく饒舌というか早口である。普段ゆっくりなだけに圧倒される。多分、フルスピードで回っている頭に口がそのまま従っている。 「でもね、馬鹿な話なんだけど鍋のもとを買ってくるのを忘れちゃってね、今彰人と何味にしようか相談してたところだったんだよ。な?」  私と一緒にぽかんとしていた彰人が、急に大声で「あ、うん!」と返事をした。 「俺はキムチ鍋がいいかな!」 「うーん、キムチもうまいけどな。でも今日はそんなに寒くないし、父さんは塩鍋がいいんだけど。母さんはどう思う?」 「え? えーっと……えーっと、そうね、私は豆乳鍋かな」 「それいいね!」  じゃあ買ってくるか、とリビングを出ようとする一静さんを、彰人がまた慌てて引き留めた。 「いいよ、父さん、俺が行くって」 「え? そうか?」 「ああ、いいわよ彰人、母さんこのまま外出られるし、行ってくるわ」 「いいっていいって、俺、ちょっと外走ってこようと思ってたからちょうどいいんだ」 「そうか、じゃあ彰人にお願いしようか。あまり遅くなるなよ」 「うん、行ってくる」  犬か、というスピードで彰人が出ていく。あの子財布持っただろうか。 「とりあえず着替えてきなよ。準備は適当にするから」 「あ、うん、ありがと……」  少しスローに戻った一静さんに促され、私もリビングを出た。  結局、汗だくになって帰ってきた彰人が買ってきたのはトマト鍋のもとだった。「なんか俺がよく知らないタイプの鍋だった」という記憶だけで買ってきたらしい。どんだけパニックだったんだと思いつつ、ダイニングテーブルの真ん中にあの雑誌を置いて、三人でトマト鍋を囲んだ。  確かに、分厚くて丈夫だし、汚れてもすぐ捨てられるし、鍋敷きとしては中々優秀な働きを見せた、が。 「そうじゃないでしょ」  食卓を片付けて、全員自室に入った午前零時。  私は一静さんの部屋の前に立つ。
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