32人が本棚に入れています
本棚に追加
私は右利きである。左で柄を持ち、右で持ったスポンジで刃の部分を洗っていた。
後から考えるに、あせって左手を変に動かし、右手に向かって突き出してしまったようだ。
刃は見事に、右人差し指の第一関節の側部を、真横に切りさいた。
とにかく血が止まらない。まるで沼の底からゴボゴボ湧き上がってくるようだ。流しがどんどん赤くなっていく。
切ったそばから患部が腫れあがって、まるで地震で割れた断層みたいに傷口がずれている。
歴代の怪我のデータと照合するに、これは熊野史上最も深い怪我をしてしまった可能性がある。
さすがにパニックになった私はずっと、心の中で「Ctrl+Z! Ctrl+Z!」と叫んでいた。
どう考えてもPCのやりすぎである。
右の手首を強く握りしめ、痛みに耐えること5分くらいだろうか。
ようやく外気に触れた血が乾き始めたころを見計らって、私は流しから離れて応急処置を行った。
これではさすがに仕事には行けない。というか、仕事にならない。
私は左手で、近くの外科を調べ、職場に遅刻の連絡を入れた。
「すみません、ちょっと指を切って怪我をしてしまったので、病院行ってから遅れていきます」
「わかりました。お大事にしてください。――あ、それ……通勤途中、とかじゃないですか? 労災ではなく?」
「あ、いや、あの……自分ちの台所で、包丁で切っちゃったんです。自分ちです」
「あ……そうですか……」
電話越しにも、困惑しているのがわかる。
「わかりました。お気をつけて」
「すみません……失礼します……」
そりゃ、そうだろう。
朝っぱらから『包丁で指を切ったので遅れます』なんて連絡が来るとは普通思うまい。
病院に行って、処置をしてもらった。
ちょうど関節の、曲げ伸ばしをする箇所をけがしてしまったこともあり、全治1か月。3針縫った。
幸いにも、骨と神経には異常なし。
一昨年(’17)のことだが、今でも縫った部分を引っ張ってみると、白っぽく縫い痕が見える。
これからは、包丁を扱うときは十分に注意しなければ、と熊野は今さらながら心に強く決めたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!