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レッスン3『あーん、をする』『膝枕をする』
「………こちらにサインを………あの、隊長?シャインベック隊長?」
「………ん?あ?ああ、済まなかった」
部下の持ってきた決裁書類に、慌てて目を通し、サインをする。
失礼します、と部下が執務室を出ていくのと入れ替わりに、「よお、茶ぁしにきてやったぜ」とヒューイが片手を上げて入ってきた。
「ちょうどコーヒーを入れていた。飲むか?少し冷めたが」
マグカップに注いだコーヒーをヒューイに渡したダークは、自分のマグカップにも改めて注ぐ。
「俺猫舌だから丁度いい。………うん、美味いわ。隊長さまはいい豆を使ってるなー」
「お前の執務室にあるものと同じだ」
「人に淹れて貰うのと自分で淹れるのは全然違うんだよ」
ヒューイは分かってないなと首を振る。
「で、どうした。昨日デートだったんだろ?俺の言ったようにやったか?」
「いや、………すまん、手を繋ぐまでは行けなかった。それどころではなくなってな」
「それどころでは?どういう事だ?」
苦笑したダークは、昨日のカオスをヒューイに語った。
「………ふわー、すげーなリーシャ嬢。………びいせんの乙女かよ。クククッ。いやぁ、見たかった。心からその場に居なかった事が悔やまれる」
「笑い事ではない。
リーシャ嬢が大声で『迫ってるのは自分なんです!』と声高に力説してくれたお陰で、トイレから戻った時には、俺が無理やり迫ってるとかの誤解は解けていたらしいのだが、
『不細工のクセにこんな美人に迫られていい返事1つしてねえのか。死ね。爆発しろ』
とか、
『びいせんの乙女は一番醜い男に舞い降りると言うから、奴よりは俺はマシな面じゃん。でもびいせんの乙女が惚れてくれるなら奴ぐらい不細工になりたかった。やはり死ね』
とか、彼女に聞こえないように呪詛されまくったんだぞ」
ダークの少し涙目の訴えに、もう我慢できないと腹を抱えて大笑いしたヒューイは、涙を拭いながら、
「あっはっはっ、もうやめてマジで俺が死ぬ。
それにしても、いやマジで好かれてんじゃねーの?
リーシャ嬢がそこまで言ってるなら、からかってるとか、そんなレベルじゃないだろ。
お前も好きなんだし、もう付き合ったらいいじゃん。何を迷ってんだ?」
ダークは、深く息を吐きながら、
「………いや、俺もからかわれてる、とかはもう余り思わないようになったんだが………」
「………だが?」
「リーシャ嬢は釣りが好きだ」
「うん?」
「俺は、それなりに長いことやって来たから、そこそこ上手く釣れるし知識もある。
少年みたいな格好をしてるときに、色々と教えたりしたこともある。
彼女はこんなに親切に教えてもらえる人に初めて会った、と言っていた。
………ほら、刷り込みってあるだろう?」
「あー、鳥とかのヒナが初めて動いたものを見たときに親だと思うとか、ってヤツか?」
「それだ。病弱で余り出歩くことも少なかった世間知らずの彼女が、初めて趣味で知り合った人間に親切にされ、知らない知識を与えて貰えたことで、『優しくして貰えたいい人=好きな人』、とか勘違いしてるんじゃないか、と。
ほら、顔も自慢できんのに、18のリーシャ嬢から見たら32のオッサンなんだぞ俺は」
「28の俺もオッサンだろうな」
「当然………いや、まだギリギリ20代ならいけるのかも知れん」
「でも年齢も知ってるんだろ?問題なくねーか?もっと年の離れた夫婦だって腐るほどいるし」
「いや、その上、リーシャ嬢がくれたクッキーを、良いことがあった日の夜に、ご褒美として一枚ずつ食べて無くなってしまう日の延命を図るようなみみっちい男だ」
「………じゃあデートの日にも食っただろ?」
「勿論だ。初めて貰った日に一枚、デートでの『本当に好きなんです』で一枚、『私の方が迫ってるんです』で一枚、『休みの空いてる時間を全部欲しい』でうっかり三枚。
クッキーが甘さも控えめでとても美味いのだ。彼女が作ったと思うとより一層美味い」
「あー、最後のは好きな人に言われたいおねだりベスト3に入るな」
「だろう?これは三枚食べても仕方がないと思わないか?
………だが、残りがあと三枚しかなくなってしまった。俺はこれがなくなったら、良いことがあった時にどうすればいいのか」
「………いや、また焼いて貰えばいいんじゃないか?」
「っ!?………俺がそんな事を、お願いして良いものだろうか」
衝撃的な発言を聞いたかのように、ダークは驚いた顔でヒューイに問いかけた。
「え?いや、好きならむしろ喜ぶんじゃないの?もっと好かれたいって言ってたんだろ?」
「そっ、そうか。
その、次の休みの時に、頼んでみても、いいかな?いいよな?」
「おう。当たり前じゃん」
嬉しそうに無邪気に笑うダークを見つめながら、リーシャ嬢がダークを傷つけることがないよう、この恋愛経験ゼロの年上の友人にようやく訪れたらしい幸せに、心からの祈りを捧げつつ、冷やかすように返事を返すのだった。
ーーーーーーー
「リーシャお嬢様、分かっておりますか?平常心、平常心、平常心でございますからね」
「ルーシー、貴女おかしいんじゃないの?好きな人とデートするのに、平常心でいられる女がどこの世界にいるのよ、お迎え間近の枯れたお年寄りじゃあるまいし」
ここ数日、天気も穏やかで暖かくなってきたと言う事で、本日のデートは公園でのピクニックである。
勿論、お弁当も手作りである。
食べやすいようにトマトやレタス、ローストビーフを挟んだサンドイッチに、男性はやはり物足りないだろうと鳥の唐揚げ、ポテトフライも追加して、デザートにはプリンである。
「お嬢様は平常心で一般的な女性のドキドキモードでございます。
ダーク様もその手の事には慣れておられないとお見受けしますし、やりすぎは逆効果になりかねません」
「………そうね。私なんかよりよほど繊細で細やかな心遣いの出来る方だものね。
肉食系を意識しすぎて、妻に先立たれたナイスミドルな旦那様をお慰めしつつ徐々に自分へ堕とすつもりの肉感的なメイド、という設定で、精一杯前向きに取り組むつもりだったのだけど」
「そもそものモデルケースが乙女が選択するものではない上にシチュエーションが具体的すぎてえげつのうございます。
そちらの設定は今すぐ心の一番下に投げ捨てた上で踏みつけて封印して下さい」
「封印するのはいいれけど、じゃあどうやってダーク様を攻めればいいのよ」
「真っ先にダーク様に『あーん、をする』とか、『膝枕をする』など、乙女の考えるごくごく微笑ましいシチュエーションがまるっと出てこないところがお嬢様の本当に残念なところです」
「あーん、………てルーシー、いやだ、そんなこと私に出来るのかしら?」
「最初の設定を前向きに取り組もうとしていた方のお言葉とは思えませんが、少なくとも先程の設定より100倍は簡単な筈でございますし、ダーク様もまあ断る事はないと思われます」
「………分かった。頑張るわ私。行ってくるわね!」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
長年近くに居ても、お嬢様の羞恥心のボーダーラインが分からない、とルーシーは己の修業不足を反省しつつ、いそいそと出ていくリーシャお嬢様に頭を下げるのだった。
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