お姉ちゃんの大切な用事

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お姉ちゃんの大切な用事

 風呂上がり、ボクは洗面所の鏡の前でため息を吐いていた――  鏡の中のボクは身長155センチで女の子みたいな華奢な体つきをしている。受験を間近に控えたボクらは学校の行き帰り以外に外へ出る機会もすっかり減り、元々白い肌は女の子みたいに真っ白い。 「う~~~~っ!」  頭をくしゃくしゃにかき乱すと、風呂上がりの濡れた髪から滴が洗面所の鏡に飛び散り、綺麗な水玉模様が出来上がった。 「あっ、きれい……」  あー、ダメダメダメ! 今のつぶやきはまるで女の子みたいじゃないか。ボクは歴とした男の子であり、中学三年生であり、四月には男子高校生になるんだからー!  ああ、神様。ボクはどうしたら一人前の男になれるんでしょうか。第一志望の県立K高校は地元では数少ない男子高校です。そこに入れば本当に男らしさが身につくのでしょうか。  姉とボクが写った昔の写真を見た人は決まって『可愛い姉妹ですね-!』と感嘆した後、ハッと思い出したように口をつぐむのだ。  確かに昔の写真を見て自分でも思うよ? 幼い頃のボクはまるで天使のように可愛いかったんだ。  姉のお下がりのお洒落な服を着て、満面の笑顔でカメラに収まるボクは天使だよ。  でも――――  もうすぐボクは高校生。立派な男しての道を歩まなければならないのだ!  姉のお下がりの水玉模様のパジャマに袖を通しながらボクは決意を新たにする。  洗面所のドアを開けると、廊下に姉がいた。  右手にドライヤー、左手にホテル仕様のふかふかなバスタオルを持って、はあっ、はあっ、と息を弾ませて立っていたのだ。 「あっ、お姉ちゃんお帰りなさい」 「う、うん、(しょう)ちゃんただいま。はぁはぁ……お姉ちゃん、生徒会のお仕事が長引いてちょっと遅くなっちゃった! はぁはぁ……でも、何とか(しょう)ちゃんのお風呂上がりに間に合ってよかったぁー!」  そう言って、ニッコリと笑う姉は東京六大学への合格率で一、二位を争う名門私立高校に通っている。しかも生徒からの圧倒的な支持をうけて生徒会長を務めている才色兼備で完璧な女性なんだ。  姉は息を切らした様子で、首筋には汗が滴っている。何か大切な用事を思い出してきっと駅からダッシュで走ってきたのだろう。姉をそこまで駆り立てる大切な用事って何なのかは弟のボクには知る由もない。  姉は身体を寄せてきた。するとボク自身の胸元から漂う石鹸の香りと姉の汗のにおいが混じりあい、お花畑にトリップしそうになったボクは頭を振って魂を現実に引き戻す。  「ほら、こんなに濡れちゃって。はぁはぁ……(しょう)ちゃんは、お姉ちゃんがいないと、はぁはぁ……やっぱりダメね、うふっ♡」  まだ息が上がっている姉は、ボクの頭を純白のふかふかタオルで包み込み、ボクを洗面所へ押し戻していく。  ボクの家の洗面所は壁一面に大きな鏡が張られていて、腰の高さほどの大理石の台に信楽焼の大きな洗面ボールが2つ並んでいる。  (とう)製のイスに座ったボクの後ろから姉がドライヤーで髪を乾かしてくれた。  実はこの習慣はボクたちが幼いころからずっと続いているものだ。姉がカリスマ美容師役でボクが入社一年目のOL役という設定でごっこ遊びをしたのが切っ掛けだったと思う。それ以来、毎日ボクの髪の手入れをするのが姉の日課となっているのだ。 「お姉ちゃん、いつもありがと!」 「はぁはぁ……ううん、お姉ちゃんの方こそありがと、はぁはぁ……」  まだ息が上がっているみたい。  ボクの髪のことなんて後回しでもいいのに……  お姉ちゃんには全力ダッシュで帰って来なければならない程の用事があるんでしょう?  ボクは姉のドライヤーを持つ右手とブラシを持つ左手を握った。 「ふえっ!?」  鏡の中の姉は真っ赤な顔で慌てふためき、口をあわあわさせている。  きっと寒空の下、駅から走って来たことで顔が上気しているんだろう。    ボクは男として、言わなければならない! 「ボクの髪なんか後回しで良いから! お姉ちゃんが本当にやりたいことを先にやって良いんだよ!」 「わわわ、わっ、私の、本当に、ヤリタイこと――――っ!?」  ドライヤーとブラシが大理石の床にカツーンと落下した。  姉のスリッパが一歩、二歩と後ずさり。 「はわわぁ――――っ!」  不思議な声を発しながら顔を手で覆う姉。  その場で膝を付いて丸くなったかと思えば、あたふたとブラシを拾ってすぐにまた落とし、ドライヤーのコードをぐるぐる巻きにして、また伸ばしたり……奇行を繰り返している。 「お、お姉ちゃん、大丈夫!?」  ボクが慌てて姉の肩に手を置くと、まるで熟れたトマトのような真っ赤な顔を上げた。  それを見たボクは、ハッと息を飲む。  姉の目の焦点は定まらず、ボクを見ているようで見ていないような……言葉は悪いかもだけれどそれは狂気の表情だったのだ。 「お姉ちゃん……」 「しょ、(しょう)ちゃん……」    姉は顔を近づけてくる。  何がどうなっているか分からず、ボクは動きを止めている。   「(かえで)お嬢さま、大切な用事(・・・・・)の準備が整いましたのでダイニングにお出でください。祥太(しょうた)お坊ちゃまもお嬢さまとの夕食を楽しみにお待ちだったのですよ?」  家政婦の喜多(きた)が洗面所に入ってきていた。  まるで忍者のように気配を感じさせずにいつの間にかそこにいたのだ。 「あっ、そそ、そうね、そうだった! お姉ちゃん部屋着に着替えてこなくちゃだからまた後でね、(しょう)ちゃん」 「なーんだ、お姉ちゃんの大事な用事って夕食のことだったんだね! あっ、そうか! 今日はお姉ちゃんの大好きなビーフストロガノフだったね!」 「そうですね、(かえで)お嬢さまはビーフストロガノフに目がないのです。さあ、祥太(しょうた)お坊ちゃまから手を離して、さっ・さ・と・行きますよ!」  家政婦の喜多(きた)は姉を連行するように連れて行った。    
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