出会い

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出会い

『久芳くんって、私のこと本気じゃないでしょ? 私たち別れましょう』 出会いと別れの多い四月、俺にも別れがやってきた。 行き付けのバー「ひこぼし」にて、数時間前の出来事――付き合っていた杏子との別れ際を思い出していた。 独り身で、かつ特定の友人を持たない俺は、仕事が終わると真っ直ぐ家路に着くことはない。晩飯がてら飲み屋街をふらふらと出歩き、そこで出会った人たちと一晩を過ごすことが趣味になっており、日常になっていた。杏子も、その出会った人たちの一人に過ぎなかった。 本気だったかと問われても、そういった感情は人の匙加減で結構変わるものだ。俺だって、本気で好きになりたかった。それでも、心に響くようなパンチが無かった。それを言ったら、ホントに左頬に強烈なパンチが来た。いや、そういう物理的な話じゃないんだけど。 これまでも、これからも、きっとそうなのかもしれない。誰と付き合っていても、忘れられない人がいる―― 「これで何度目よ、アンタ」 「え? えーと……、覚えてない」 空になったグラスを交換してくれるバーテンダーは、この「ひこぼし」店主のミドリ。明るい茶髪は刈上げられ小麦色のこんがり焼けた肌はガタイがよく筋肉も隆々としている。  ひこぼしは、カウンターが四席、小さな丸テーブルが二組ある小さなバーであり、飲み屋街の大きな通りから一本中に入る路地裏にある店。大きなネオンの看板で場所を知らせるわけもなく、壁に小さく店名が刻まれており、こっそりと店の名前を教えてくれる。飲み屋というよりは、お酒とおつまみを出してくれる待合室。一人で飲んで他人を待ち、相性が良ければ、ひこぼしや違う飲み屋で飲む、という店だった。独りは嫌いだが大人数もあまり好きではない俺にとって、話し相手がいるこの店は好きだった。 「ほら、冷えたおしぼり。せっかくのイケメンが台無しよ?」 「ありがとう。でも、俺イケメンじゃないから」 「はぁ? 鏡見て言いなさいよ。アンタ目当てで来る客もいるのよ? まあ、その分、売上に貢献してもらっているから有難いんだけどね」  だから、アンタの今の顔を見たら悲鳴を上げる子も居そうよね、と、殴られて火照っている頬におしぼりを当てて冷ます俺の姿をケラケラと笑いながらミドリは続けて言った。 「ミドリ。俺はね、初恋が忘れられないのよ」 「……はい?」 誰とデートしても食事しても体を繋げても、ある人物が脳裏に浮かぶ。 その人物を忘れない限り、俺はずっとそこから進めない。新しい恋なんてできるわけないと自覚している。でも、誰かが過去を忘れさせてくれるのではないかと期待して、毎日街をふらふらしている。一つ大きな息をついてから、その思いをかき消すかのように一気に酒を飲んだ。 「俺はね、男でも女でも過去を忘れさせてくれるような奴に出会いたい。聞いてくれる? 俺の話……――」
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