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秋 桜(コスモス)
もうすぐ仕事も終わり帰宅の時間が近づいてきた。毎日残業に追われ定時に帰れる日など無いに等しい忙しい日々が続いていたが、でも今日のオフィスの窓から見える景色はいつもと少し違っていた。
もう当たり前のように猛暑が続いた夏が過ぎ、残暑も厳しく、ようやく秋めいた季節が訪れ始めてきたかと思うと、ここ数日はコートでも着たくなるような寒い日が続いていたが、今日はポカポカ陽気の春を思わせるような気持ちの良い一日だった。
小春日和…、今日のような日をそんなふうに呼ぶんだろうなと、昼食を会社の近くの公園のベンチで食べているときにそんなことを考えていた。
そんな穏やか日、今日だけは何がなんでも定時に会社を出るんだと、山内信也は数日前から必死になって仕事にうちこんでいた。
大学を卒業して今の会社に入社した信也も今年で56歳、そろそろ定年なんて言葉が耳元をかすめだしていた。
毎日仕事に追われ、思い返してみれば子供の運動会や、学芸会、そんな当たり前の行事も何回見に行けたか自分でもあまり記憶には残っていなかった。
気がつけば、そんな娘も結婚するような年になってしまっていた。
『秋桜(コスモス)』信也が若い頃ファンだった歌手が歌っていた曲で、今日のような小春日和の日に、娘が嫁ぐ前日の母親と娘の想いをしんみりと表した名曲だった。
昼間公園で昼食を食べながら、信也はその歌をなんとなく口ずさんでいた。
嬉しいような、寂しいような気持ちが交互にこみ上げてきていた信也だったが、ふと一つのことに気が付いた。
「この曲には、父親の存在が表されていない…」
今更ながらそのことに気付いた信也は一瞬落ち込んでしまったが、「しょせん父親なんてそんなもんさ」なんて自分でも不思議なぐらい開き直ってしまっていたのだった。
でも、せめて今日ぐらいは。
娘の結婚式を三日後に控えていた今日、家族三人で食事に行くことになっていたのだった。
今までも、誕生日などで食事に行ったことなどはあったけど、いつも仕事が終わらず途中参加出来ればいいほうだった。
だから今日だけは…、今日だけは。信也の心の中はその想いしかなかった。
デスクの目の前にあるパソコンの画面には、明日の会議で使う書類の原稿が映しだされていたが、そんなものとっくに出来上がっていたのだが、同じ文面を消しては書き、また消して書きながら顔だけは切羽詰まった振りをして、オフィスの時計の針を横目でチラチラ見ている状態が、もう一時間も続いていた。
「あと十分。あと五分…」そしてついに待ちに待った定時なった。
「みんなスマン。どうも明日の会議の内容がまとまらなくて、悪いがちょっと気分を変えたいから自宅に帰ってやり直してくるから、今日は先に上がらせてもらうよ」と言った時のパソコンの画面は既に真っ黒だった。
帰り支度を済ませ、何となくオフィスの窓から外を見ると、向かいのビルとビルの間に夕日が沈んでいくのが見えたときに、こんな光景を見るのは初めてのような錯覚さえしていた。
オフィスを出て駅まで歩いている道もいつもと同じ道なのに、背中から照らす夕日が写す自分の影さえも何故か新鮮に見えていたが、夕日が隠れてしまい自分の影が消えてしまったとき、信也の頭の中には、また“秋桜”の歌が流れてきた。
『縁側でアルバムを開いては 私の幼い日の思い出を 何度も同じ話繰り返す ひとり言みたいに小さな声で…』
「娘のアルバムに俺は何枚写っているのかな」
信也はこの日を本当に楽しみにしていた。自分でも何でここまでこだわるのか分らなかった。
ただ、駅までの道を歩いているうちに日が沈み、だんだん暗くなっていく周りの景色と同じように、信也が思っていた今日の気持ちも薄れていくような、そんな寂しさに変わっていくようだった。
待ち合わせの時間より少し早めに予約していたレストランに着くと、妻の仁美と娘の陽子は既に席に座って信也が来るのをまっていた。
「なんだ、ずいぶん早く来てたんだな」
そんな信也の言葉に二人は少し呆れたような顔をしていた。特に娘の陽子は信也の顔を見ながら「早いんじゃないの、これが普通なの。まったくいつだってそうなんだから、今日だって来ないんじゃないかと思ってたんだからね」
陽子は口をとがらせながら、席に座ったばかりの信也にメニューを突き出すように渡した。
「陽子そんな言い方やめなさい、お父さんだって今日のために昨日だってほとんど寝てないんだから」
「わかってるけどさ…」
そのときの雰囲気は信也が思い浮かべていたものとは、程遠いものだった。
娘のが結婚する前に、最後に家族三人でどこかで食事をしようと言いだしたのは信也本人だったが、きっと陽子の子供の頃の話や、あんなこともあったな、なんて昔ばなしをしながら和やかに過ごす時間を思い浮かべていた。でも、その場の雰囲気は“たまには外で食事でもしょうか” ぐらいの感じにしか思えなかった。
そんな雰囲気は食事をしている間もずっと同じだった。昔話どころか、三人の会話はごく普通の世間話にしかすぎず、ただ時間だけが過ぎていくだけだった。
自宅に戻った信也は、明日の会議で使う資料を確認していた。確認といっても、すでに出来上がっているものをただボーっと見ているだけで、あまりにも拍子抜けした今日の出来事を思い返しているだけだった。
「まだ終わらないの?」仁美が信也の元に近づきパソコンをのぞき込んできた。
「大丈夫だよ、もう終わっているから」
デスクの周りを片付けながら信也は資料などをバックの中にしまっていた。
「それにしても陽子の奴今日はやけに機嫌悪そうだったな。何かあったのか?」
「大丈夫よ、あの子もちゃんと色々考えているから」仁美は薄ら笑いをしながらデスクの上に置いてあった湯呑を片付けていた。
「何だよ、その意味深な言い方は…」
「何もないわよ、それより明日も早いんでしょ、早く寝たほうがいいわよ」
そんな仁美の答えに、なんだか釈然としない信也だ。
十月二十七日、日曜日。信也にとっても特別な日がやって来た。
結婚式の準備のため、先に式場に行った陽子の後を追うように、信也と仁美は式場に向かっていた。
信也は平静を装っていたが、心の中は結局この三日間いつもと変わらない陽子の態度に寂しさを感じていて、親戚の結婚式にでも出席するような心境でしかなかった。
式場に到着してからは、控室に来る招待した人達への挨拶回りをしていたが、「おめでとうございます。でも一人娘の陽子ちゃんが嫁に行っちゃうから寂しいでしょ」なんて、沢山の人から声を掛けられていた。
確かにそんな寂しさはあるけど、信也の心の中は、仕事の接待をしているのと対して変わらないや…、というのが本音だった。
「伊藤家並びに山内家の皆様、本日は誠におめでとうございます。それでは式場に皆様を御案内しますので、まずはご両家のお父様、お母様から先にご移動いただけますか」
式場の女性に声を掛けられ、その女性の後について行ったが、なんだかその女性の話を聞いたとき、やっと娘の結婚式なんだな、なんて実感が湧いてくるぐらい信也の心の中は冷めているかのようだった。
「それでは、新婦のお父様はこちらでお待ちいただけますか。あとの皆様はこちらの式場の前の席からお座りになってお待ち下さい」
案内をしていた女性の示す先には一つの椅子が置いてあった。
「チャペル?、あれ神前式じゃなかったっけ」信也が仁美の顔を見ると、横で仁美はニヤニヤと笑っていた。
「教会式よ、変えたの言わなかったっけ」
「聞いてないよ、まあどっちでもいいけど」
仁美は呆れていた。
「そうよ、陽子の希望で一週間前に教会式に変えたの。それでドレスをまた選ばなくちゃとか、あのこも仕事も忙しくて、気に入ったドレスがなかなか手配出来なくてちょっとイライラしてたのよ」
「なんだよ、そんなの自分の勝手だろ。式場の人にも迷惑かけてイライラもなにもないだろ」
「鈍感‼」
仁美の強烈な一言が信也の心に突き刺さった。
「教会式に変えたからあなたはここの席で待ってるの。後は言わなくても分かるでしょ」
「おい、ちょっとまてよ。それって俺が陽子と一緒にここから入場するってことか、そんなこと聞いてないぞ」
「そうよ、言ってないわよ。だってあなたそんなこと前もって言ったら絶対嫌だって言うでしょ。だから陽子から口止めされてたの。陽子があなたと一緒に入場したいんだって。それじゃちゃんとやってよ」
そう言い残すと仁美は式場の中に行ってしまい、目の前の扉は閉じられた。
呆然と立ちすくんでいた信也に、式場の女性が控えの椅子で待つように案内していた。
信也の頭の中はしばらくの間真っ白になっていたが、少しづつ今の状況が頭の中で整理できてくると、今まで冷めていた気持ちが消えていくのを肌で感じ、幼い頃からの陽子の記憶が次々と蘇ってきていた。
存在したんだ、あの “秋桜” の詩の中にも、父親はいたんだ。
信也の目頭はだんだん熱くなり、必死で涙がこぼれ落ちるを我慢していた。
目の前には大きな扉がある。
ディズニーランドのお城の扉のような、扉の向こう側には夢の世界があるのではないかと思わせるような素敵な扉だ。
そして私の横には、今にも涙がこぼれ落ちそうな目をした娘が私の腕に手を掛けている。
「おいおい、今泣いちゃったらせっかくのメイクが台無しだぞ」
娘はただ小さくうなずくだけだった。
心地よいメロディーが聞こえてくると、目の前の扉が静かに開き、そこに沢山の人の笑顔が見えたとき、眩しいばかりのライトが照らし出されている自分のほうがなんだか恥ずかしくなってきてしまった。
真っ直ぐに伸びたバージンロードを、一歩一歩娘と腕を組んで歩いて行く。
ありがとう。
今まで頑張ってきたご褒美かな。
自分にしか味わえないこんな素敵な時間。
今日は自分だけの父親日和。
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