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尻の叩かれる音が、回数を重ねて僕の呼吸をせばめていく。
これは僕が一日を生きるための儀式だった。
「もう、手が痛い」
母さんが暗に儀式の卒業を訴えても、毎日は続く。
いち、にい、さん。数字が一個で幻視に緩いうちはなんとなくまだぼんやり夢の中で大気はきっと僕の肌に耐えがたく熱いだろうと、肌をなでるだけでいられたのだけど。
じゅういち、じゅうに、じゅうさん。
数字がふたつ組で仲が良さそうで、ふぎ、ふぎい、喉が生命を求めて共鳴する相手を探し始める。
じゅうよん、じゅうご、じゅうろく。
体中から現身の菌糸が鳴っていたはずの音色の残骸を弔うように、拡散する。
じゅうなな、じゅうはち、じゅうく。
覚悟の炎は自前の石火。削るは自分で、燃やすも自分。対外に都合のいい声の反射材も見当たらず。うぎゃ、おぎゃ、おぎゃあ、おぎゃああああああ。
「はい、今日も産んじゃいました。まったく、二度手間の何千回目だか」
母さんのぼやきが僕の産声のお終いにかぶさってくる。
僕は逆子だったらしく、助産師さんがお尻を十九回、叩いてようやく息をしたのだそうだ。
だからってことにとぼけてしておいた。僕は、十九回、お尻を叩かれないと目が醒めない。
「せめてズボンの上からにできないんか、私が恥ずかしいよ」
母さんのぼやきは続く。僕は産声の快楽に散らばりかけた体を集めて、ズボンとトランクスをずり上げる。
「今日は、おとな日和だよ」
母さんは反則技の二十回目を僕のお尻に叩いた。
「なんだって?」
産声の分岐をなかったことのように二十回目の打烈は僕の臀部におとなしくない。
「あんたまだ幾つも残っているんだろう?」
母さんは僕をおとなにしたいみたいだな。産まれ疲れてそれどころじゃないんだこっちは。
「産みの儀式担当者を母親以外にみつける、街中にて人を殴り倒す、小学生が外した自転車のチェーンを直してやって名前も言わずに立ち去る」
おいおい、覗きみは悪趣味だよ。
「カードみたの?」
「みえちゃったの」
母さんはリビングのテーブルでクルミをつまみながらコーヒーをすすっている。時々僕を叩いた二十回目の掌がクルミの命を蘇生させそうになりつつも。
「みえるわけないだろ、財布に入れてるんだから、みようとしないと、みえるわけないだろ」
僕は叶わない願いを敵わない相手に唱えることはしない。
だから、みないでくれとは言わない。母さんにそう言ってももうすっかり無駄だと種は開いている。如雨露の水のような僕の言葉は、せめて母さんじゃない誰かに注いでみよう。
「今日がおとな日和?」
「そうだってよ、さっきテレビの予報で。あんたも着替えて行っておいでよ。日曜日じゃない。それでなくても」
反則の二十回目にはちゃんと意味があったのか。
僕は自分で自分の尻を叩いた。
にじゅういち、にじゅうに、にじゅうさん。
どーでもいい秘密を空き缶に叫んでいた死んだお爺ちゃんのしゃがれ声ぐらいつつましやかに音だけが、音だけで精いっぱいに響いて消滅する。
はあ。
財布にしまったカードを盗みみなくても覚えている。
僕がおとなになるために経験しなくてはいけないこと。残りまだ七つ。
一緒におとなになろうなって約束を耳たぶにひっかけてくれたアイツは三年前におとなになった。
お前の方が早そうだな、だって下の毛生えるのクラスで二番だったし、と、僕の股間まさぐって言ったアイツは二年前におとなになった。
母さん以外の人に尻を叩いてもらう。
街中で人を殴り倒す。
自転車のチェーンは直せる、でも、小学生に気安く話しかける爽やかな先輩風がなかなか、どうして吹かせられない。
古着屋で店員と談笑し何も買わずに店を出る。
ミュージシャンのファンになって出待ちをする。
立ち入り禁止の屋上で寝る。
そして、
異性のうなじを舐める。
この七つ。おとな日和か、嫌な日曜日だ。また今日僕は何人に置いていかれるんだろう。早ければいいってもんじゃないんだと、僕ですらそう、思わない。早い方がなにかといいことばっかりだ。そうに、決まってる。
「じゃぁ、出かけてきます」
僕はうちを出た。 おとな日和の日曜日は、普段よりも季節感をずっしりと風に編みこんで、まわりくどい映画解説者が映画の上映時間以上かけて語りをやるみたいにお節介な雰囲気だった。
今日はおとな日和です。
みんなでカードを埋め尽くしましょう。
あなたも今日からおとな。
お酒をカチンとショットでいないいないバア。
カワイイあの子と避妊具の浪費グッバイ。
初めての車は父さんの、それともバイトで貯めた数十万、中古で買ったキャデラック走るミュージックビデオの主役は今日から君だ。
パチンコ、競馬、命以外の全部をベット。
ペットはなににしましょうか、ワンちゃんねこちゃん、それともわ・た・し。
街を街頭カーがおとなの鎧に跳ね返るジョーク織り交ぜ、おとなにならない僕らを貫通していく録音ヴォイスを繰り返す。
僕は時々髪をかきあげるフリをして耳に指を突っ込んだ。
どうしても、聞きたい言葉とそうでない言葉の区別がまだ頑丈で。自分の溶けないいたいけをあっていいと慰めるやら、情けねーなと侮蔑するやら、態度は二十回目の尻叩きと同様、定まらない。
逃げ場を求めるように図書館へ歩いている。
埋まったおとなカードが都庁の管轄保管庫へと秒速を永遠に加速させながら僕の街を鳴かずに走っていく。代わりに泣けと、言うようにカードは必ずどれもプリズムの中でくすませるのに適当な、折り紙の残った色と同じ色をキラリと僕の目に光らせていく。持ち主の行儀を離れて、タチが悪い。
ガチャ。木造校舎を改装した図書館の重い扉を開いて中を進むと、多目的ホールに母子体操の様子がある。
視線を適度に泳がせて、掴まり立ちの赤ちゃんにも僕は掴まれない。図書館二階の純文学棚で、やっと一息おとな日和の安全圏でしゃがみこんだ。運が良ければ棚の隙間に無防備なスカートがみえることもあったりするのだけど、今日はそんな期待の余裕もなかった。
「あ、津川くん」
しゃがみこんで、井伏鱒二の背表紙を撫でていたところに、迂闊な背中を狡猾に射貫かれた。声は街頭カーの録音ヴォイスより、幾分小さな銃創で弾は肉体内に留まる。
「あれ? 村宗、さん」
高校を卒業して三年ぶりに会った同級生は、不思議なほど印象が学校内にあったままだった。おとな日和の図書館で出会った女性がおとなか、そうでないか、僕には確信があった。
立ち上がって、僕は一人喫茶コーナーに向かうようで、一緒においでよと背中に匂わせる。
村宗さんは落ち着いたファッションを図書館に歓待されながら、ついてくる。両手で持ったデニム地のトートバッグはぶらつくことなく水平に移動した。
「村宗さんは、もうとっくにかと思ってた。多目的ホールに子供といる方がしっくりくるくらい」
自販機の紙コップにけたたましい飛沫音が響く。おとなっぽいガサツさで、僕はまたきまりが悪い。ギコ、っとレモンティーの入ったコップを取り出して、椅子に座った。
村宗さんは何も言わずに、僕の隣に座った。まだずっと、両手で鞄を握っていた。
「今日は嫌なほどのおとな日和だね」
隣の村宗さんは、まだ、黙っている。
「僕は、まだ、カードに七個やり残しがある」
紙コップの縁を軽く噛んで、言えたら、村宗さんは鞄に手を突っ込んだ。
「私、四個」
と、カードを僕の顔に押し付けてくる。プリズムの色は幼く無垢に七色を均等に整列して放射していた。
回覧板を受け取って玄関で話しこむ。
文化センターに通う。
海でナンパされる。
そして、異性の肘を舐める。
最後のは似ているね。
「僕と村宗さんにとって、今日はおとな日和じゃないんだな」
「そう、だったら、私と津川くんにとって、今日はなに日和かしら」
「どうだろうね」
「どうかしらね」
図書館の規則力か、それとも、スタート地点を端折れない幼さか、僕らは「あ」から日和を探す。噛んだ紙コップの縁が一か所僕に噛みつくように唇を離さなかったけど、強引に僕は離した。
「アイスモナカ日和」
「まだ売店でアイスモナカを買えるシアターを知ってるわ。いいわね、そう、今日は映画の日で千百円、差額で三個ぐらい買える」
「イルカ日和」
「グランブルーを最近テレビでみたばっかりだ。水族館のイルカショーに行くより、映画を真似してイルカ泥棒するのも悪くない」
一人が日和を投げて、一人が日和を揉み解す。図書館の喫茶ルームで読まれる本の文章に、勝ってるか負けているか。
「梅干し日和」
「乗り物酔いが酷いから、バスに乗る日の朝だけ私、でっかい梅干し食べるの。私にとっての梅干し日和はバス日和にもなるのよ」
「エスキモー日和」
「犬ぞりの景色はお尻の景色だからみられる側よりみる側の方が気楽だろうね、何匹もの中にはきっと、綱をたるませて楽しているのがいるだろう、そいつにやる餌を一番多くやる、僕なら」
「おかもち日和」
「お任せでって中華の出前をとってみよう、おかもち日和にお任せのおかもちがスライドして、何がでてくるか、楽しみじゃない」
「アビーロード日和」
「かには?」
ん、リズムがずれると、心臓がきしむ。
「蟹? 沢蟹が好きだけど」
「違う、か行に行かないの? またあ?」
「ああ、だってまだまだあ行には日和がいっぱい、終わってないから」
「みんなは、終わらせずにかに行ったのかな」
「そう、かもしれない」
「アビーロード日和はキングクリムゾンにやっつけられるまで偉そうに道路を横断できる」
「インド日和」
「牛日和」
「英会話日和」
「オーロラ日和」
「朝顔日和」
おとな日和なんかより、僕らに相応しい日和のチョイスを僕は村宗さんにお願いした。躊躇った村宗さんに僕の残り七個のカードをみせた。村宗さんは四個。僕よりおとなな村宗さんに、お願いした。
二人で行ったシアターで、字幕映画に目をショボショボさせながらかじりついたアイスモナカは、僕の胸を溶かして消えた。映画が終わって灯りが眩しい。僕の肘と、村宗さんのうなじは、ほんのりバニラの香り。
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