1,初恋
1/1
1/51

1,初恋

 豪雨の森の中を、さ迷っている夢を見ていた。いや、さ迷っていたのではない。どこかに行こうとして、必死に歩いていたのだ。  生い茂る木々の間から落ちて来る雨は、滝のように彼に降りかかり、まともに息も出来ない。厚く重なり、雨水を含んだ落ち葉の層に、ずぶずぶと足が沈み、一歩進むのにも難儀する。  履いているスニーカーは、雨水をたっぷり吸い、歩くたび、ぐちゅぐちゅと気味の悪い音を立てる。そうでなくても、体が、足が、重たくて仕方がないのだ。  もう、これ以上は進めない。足元がぐらつき、体が、ゆっくりと傾いていく。  目の前に、ぬかるんだ地面が迫り、倒れ込む寸前、目が覚めた。 心臓が、ばくばくと暴れ、全身が、まるで雨に降られたように、汗みずくだ。肌に張りついたパジャマが気持ち悪い。  正太郎は、布団をはねのけ、荒い呼吸を繰り返す。冷たい空気が、肺の中と、汗に濡れた体を冷やす。  目を開けると、カーテンを閉め切った部屋の中は、ほの暗い。今は、夜明けなのか。それとも、夕暮れどきなのか。  時間の感覚が、ない。それに、今日が何月何日で、何曜日なのかも、もう、とうにわからなくなっている。  自分が、学校に行くことをやめてしまってから、いったい、どれくらいの月日が経ったのだろう……。  自分が、学校に行くことが出来なくなった、直接の原因を思い出すたび、今でも、ぎりぎりと締めつけられるように、胸が痛む。  藍沢志絵。正太郎にとって、かつては天使だった、幼なじみの同級生。  志絵と初めて会ったのは、彼の一家が、この家に引っ越してきたときだから、正太郎と志絵が、小学校二年生のときだ。あのときは、まだ、両親がそろっていた。  当時から、引っ込み思案だった正太郎は、引っ越しが、いやでたまらなかった。せっかく仲良くなった友達と別れるのも寂しかったし、新しい環境に飛び込むことが、怖くて仕方がなかったのだ。  そもそも、両親の後について、引っ越しの挨拶回りをすることも憂鬱だ。行く先々で、いちいち母に「挨拶しなさい」と言われ、大人にあれこれと話しかけられることは、苦痛でしかない。  いい加減うんざりした頃に訪問したのが、藍沢家だった。  父が、インターホンに向かって来意を告げると、出て来たのは、優しそうなおばさんだった。家の中から、カレーのいい匂いがただよって来る。 「主人はまだ、仕事なんですよ」  そう笑顔で言いながら、家の奥に向かって、声をかける。 「ちょっと、あなたたち。出て来てご挨拶しなさい」  そうして、出て来たのが、志絵と、志絵の兄の恵一だった。恵一は、当時、たしか六年生だったはずだ。  恵一のことは、体が大きくて、気が強そうな顔をしていて、内心、ちょっと怖いと思ったけれど、おばさんの背中につかまりながら、顔をのぞかせて、にこにこしている女の子は、えくぼがかわいらしく、正太郎と同じ、二年生だと言う。  それを聞いた母が、正太郎を振り返って言った。 「あら、よかったわね。お友達になってもらいなさい」  また、余計なことを言う。そう思いながら、彼女の顔を、上目遣いに見ると、志絵は、正太郎の顔を見返しながら、うふふと笑った。  初めて新しい学校に行く日、断頭台にでもおもむくような暗い気持ちで、のろのろと支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。志絵が、迎えに来てくれたのだ。  その日以来、毎日、志絵と二人で学校に通うようになった。  幸運にも、志絵と同じクラスになり、彼女のおかげで、思いのほか早く、クラスに馴染むことが出来た。自分から、人の輪の中に入って行くことが出来ない正太郎に、いつも彼女が声をかけ、引き入れてくれるのだ。  明るく人気者の彼女が親しく接してくれるおかげで、みんなに、クラスの一員として受け入れてもらうことが出来た。  学年が上がるにつれ、クラスも別々になり、もう、一緒に登校することはなくなったけれど、顔を合わせれば、いつでも志絵は、正太郎に笑いかけてくれたし、正太郎は、いつも、遠くから志絵を見つめていた。いつしか、志絵に恋をしていた。  中学生になる頃には、すらりと背が伸び、志絵は、美しい少女に成長した。  正太郎はと言えば、中学生になっても、相変わらず引っ込み思案で、冴えない毎日を送っていた。学校で、一緒に行動する数人の友達は、皆、正太郎と同じような、ぱっとしないタイプだ。  本当に気の合う友達というわけではない。成り行きで、仕方なくつるんでいる。というのは、正太郎だけでなく、グループのみんなが心に思っていることだろう。  志絵や、その友達の、溌剌とした少女たち。スポーツが得意で、明るく人気者の少年たち。自分たちと彼らとは、明らかにカテゴリーが違う。  認めたくはないが、それが、認めざるを得ない現実なのだ。それは、口には出さないながら、誰もが感じていることだろう。  学校では、普通、カテゴリーが違う者同士は、言葉を交わしたりしない。だが、志絵だけは、そんなことなど気にする素振りも見せず、正太郎に、親しげに話しかけて来るのだった。  もちろん、それで勘違いするほど、自分はおめでたい人間ではない。志絵が、自分に好意を持っているなどとは思わない。  志絵は、とても優しい子なのだ。それに、自分に話しかけてくれるのは、自分が、幼なじみだから。ただ、それだけだ。  正太郎は、そう、自分に言い聞かせる。だが、志絵に対する気持ちは、つのるばかりだった。
1/51

最初のコメントを投稿しよう!