2,両親の離婚

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2,両親の離婚

 母が、家を出て行ったのは、正太郎が、中学二年生のときだった。何年も前から、予兆はあった。  父も母も、正太郎の前では、何ごともないように振る舞っていたが、夜、二階の自室にいるときに、何度も言い争う声を聞いていた。その理由を問いただす度胸は、彼にはなかったが。  父は、帰りが遅くなり、平日は、正太郎が起きているうちに帰ってくることは滅多になく、階下から聞こえる、父の怒鳴り声で目が覚めることもあった。やがて、二人が言い争うことはなくなったが、その代わり、母が昼間、長い時間、家を空けるようになった。  そして、ある日の、二人だけの夕食後、母は、正太郎を和室に呼んで言ったのだ。 「お母さん、正ちゃんに話があるのよ」  父と母は、話し合いの結果、離婚することになったという。 「お母さんは、この家を出て行くことになったけれど、正ちゃんは、どうしたい?」  ショックだった。両親が離婚することも、もちろんだが、正太郎に、なんの相談もなく、すでに離婚が決まっているというのだ。  なぜ、決定する前に、せめて、ひと言、彼の意見を聞いてくれなかったのだろう。  だが、決まってしまったのならば、仕方がない。自分のために、離婚を思いとどまってくれなどとは言えないし、そもそも、自分が、両親に離婚してほしくないのかどうかも、よくわからない。  嫌い合いながら、無理に一緒に暮らしても、みんなが辛いだけだろう。 「お母さんは、家を出て行って、どうするの?」  正太郎の質問に、母は、目を伏せながら答えた。 「お母さん、再婚することになったの」  再び、ショックを受けた。いつの間に、そんな相手が出来たというのだ。  では、昼間、家を空けていたのは、その相手と会うためだったのだろうか。正太郎には何も告げないまま、相手の男と、結婚を決意するほどの関係になっていたとは……。  正太郎の無言を、非難と受け取ったのか、母は、言い訳を口にした。 「お母さんだって、まさか、こんなことになるとは思っていなかったわ。あなたには知られたくないから、ずっと黙っていたけれど、お父さんは、浮気を繰り返していたのよ。  正太郎のために、そんなことはやめてちょうだいと何度も言ったけれど、そのたび、お父さんは逆上して、ときには暴力を振るったのよ」  そして母は、さらに続ける。 「誰にも言えず、悩んでいたときに、相談に乗ってくれたのが、彼だったのよ。彼は……」  もう、それ以上聞きたくなかった。正太郎は、立ち上がって和室から出ると、階段を駆け上り、自室に逃げ込んで、乱暴にドアを閉めた。  母について行って、母の再婚相手と一緒に暮らすなんて、耐えられない。正太郎は、家に残り、父と暮らすことを選んだ。  彼が、そう言ったとき、母は、傷ついたような顔をしたけれど、翻意をうながしたりはしなかった。  少しずつ、母の荷物が運び出され、春の終わりに、母は、一人、家を出て行った。  父との暮らしは、想像以上に、気が滅入るものだった。  もともと父は、進んで家事をするようなタイプではなかったし、それを言うなら、正太郎も同じだ。主婦のいない家の中は、あっという間に雑然とし、活気を失った。  父は、家事をしない代わりに、正太郎に金を与えたので、食べ物は、コンビニやスーパーで調達し、洗濯は、着替えがなくなりそうになる頃に、自分でした。  それだけならば、味気ないながらも、なんとかやっていくことも出来たのだが、やがて彼は、母に、いくばくかの同情と、やみくもに非難したことへの、後悔を感じるようになる。  父は、母がいなくなったのをいいことに、家に女を連れ込むようになったのだ。しかも、その顔触れは次々に替わり、若い女ばかりだった。  父は、夜遅くに、酔って、女を伴って帰って来る。ベッドにもぐって、耳を塞いでいても、二階まで、女の嬌声が聞こえてきた。  出来る限り、女たちとは顔を合わせないように気をつけていたが、朝、階下に下りていくと、泊まった女がテレビを見ていて、ぎょっとしたこともあった。  そんな生活が、何ヶ月も続き、あるとき正太郎は、たまりかねて、母のもとを訪ねた。母が荷物を運び出す際に、宅配の用紙に書かれた住所を、こっそり書き留めていたのだ。  平日の昼間、相手の男がいない時間を見計らって、訪ねた。学校は、教師に黙って、勝手に早退した。 そこは、オートロックのマンションだった。部屋を呼び出すと、インターホンから、懐かしい母の声が聞こえ、思わず、涙ぐみそうになる。 「お母さん」  その声で、事情を理解したらしい母が、驚いたように言った。 「正ちゃん。今すぐ下りて行くから、ちょっと待っていてね」  部屋に上がって来るようにとは、言ってくれないのか。胸の奥が、ちくりと痛む。    ロビーで待っていると、やがて、母がエレベーターで下りて来た。その姿を見て、正太郎は、何も言えなくなった。  ゆったりとしたオーバーブラウスでも隠し切れないほど、母の腹部は膨らんでいる。妊娠しているのだ。 「正ちゃん」  立ち尽くす正太郎に、母は、心配そうな顔で、足早に近寄って来る。 「何か、あったの?」  彼は、力なく首を振る。 「うぅん。なんでもない。近くまで来たから」  自分でも、下手な言い訳だと思う。中学校の制服を着たままで、「近くまで来た」もないものだ。  中学校は、家から、徒歩で十五分ほどのところにあるのだ。このマンションを訪ねるために、電車を乗り継いで来ていた。  だが、母は、それには触れずに言った。 「すぐそこの喫茶店に行こうか」 「なんでも好きなもの、頼んでいいよ。何にする?」  窓際の席に向かい合って座った母が、うつむいて黙り込んだままの正太郎に、笑顔で話しかける。 「ハンバーグセットにする? お腹空いているでしょう。正ちゃん、ハンバーグ好きよね」  母は、ウェイトレスに声をかけると、ハンバーグセットと、自分のために、アイスティーを頼んだ。お腹など空いていないし、今は、ハンバーグなど食べたい気分ではなかったが、正太郎は、黙っていた。  結局、ひと言も発しないまま、運ばれてきたハンバーグを、無理矢理口に運んでは、咀嚼した。味など、よくわからなかった。  そんな正太郎を、母も黙ったまま、じっと見つめている。付け合わせのクレソンを残したまま、フォークを置くと、ようやく、母が口を開いた。 「正ちゃん。ずっと一緒にいられなくて、ごめんね」 「そんなこと……」  今さら言われても、遅い。そう思ったが、口には出さない。  母は、持っていたバッグから財布を取り出して開けると、一万円札を抜き、正太郎の前に置いた。 「これで、お菓子でもなんでも買いなさい」 「こんなにたくさん、いいよ」  正太郎は、テーブルの上のお札を、母のほうに押し戻す。  母が、苦笑する。 「何、他人行儀なこと言っているの。いいから、取っておいて、必要なときに使いなさい」  そして、正太郎の手を取って、手のひらの上に、お札を載せた。 「また、いつでも遊びにおいで。そのときは、また、おいしいもの食べようね」  母とは、喫茶店の前で別れた。母は、ずっと手を振りながら、正太郎を見送ってくれた。  それきり、母のマンションを訪ねることはなかったし、母からも、連絡は来なかった。
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