浮き輪

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浮き輪

 50歳を過ぎ、なんとかここまでやってこれた。大して頭も良くない俺がここまでやってこれたのは夜の付き合いを欠かしたことがなかったからかもしれない。酒を飲み、歌い、呼ばれればどこへでも顔を出す。家族と一緒に過ごす時間は少なく、すまないと思っていたが、路頭に迷うよりは良いだろう。そうやって世間の荒波にもまれながら、どうにかこうにか家族を養っている。  今日は珍しく夜の会合もなく、本当に久しぶりの家族団欒の食事だ。すると年頃の娘から「お父さんちょっと立ってみて」と言われた。娘のいうとおり、その場で立ってみる。すると娘と妻が私をみて笑いだした。 「なんだよ、どうしたんだよ?」 「あのねお父さん、歳をとったら清潔感が一番大事なんだよ。お父さんはこれじゃダメよ。なにそのお腹。浮き輪になってるんじゃん、意味わかんない。そのお腹だけで清潔感なんてないんだから・・・」  妻と娘からなじられ、あまりいい気持ちがしないまま食事が終わった。私は気持ちを切り替えて風呂にゆっくり浸かろうとスーツを脱ぐ。ふと自分の腹をみる。ベルトの上に見事に乗った腹、ワイシャツのボタンがはちきれそうになっている。娘の言葉が気になったわけでもないが、メジャーでお腹周りを図るとちょうど100センチなっていた。 『仕事をしてるんだ、仕方ないじゃないか』と自分に言い聞かせて素っ裸になり、風呂に入る。狭い湯船に体を縮め浸かると、腹の周りが窮屈なことに気がついた。湯船から出て改めて裸の自分の体をしげしげと眺める。胸から腹に向かって体の輪郭が「ハ」の字を描いている。娘の言っている通り浮き輪だ。手のひらで叩くとピチャリとなんとも情けない音がした。これでも昔はラグビーで鍛え、体は逆三角形で腹筋も割れていた。海に行けば周りの大人からこの体をうらやましがられたものだ。それが・・・、それが・・・。  夢の中に神様が現れた。 「お前が本当にこの浮き輪をとって欲しいのなら取ってやろう」  私は即答した。「お願いします」  朝起きると、夢のことははっきりと覚えていた。だが、まだお腹はそのままだった。  お昼は近くにおいしいカツカレーの店ができたという部下の誘いを断り社食できつねうどんを食べた。  夜、取引先の社長から誘われたが、珍しいことになんとなく行く気がせずにこの誘いも断った。  その日からは時間を見つけてジムにも通い始め、適度な運動もするようになった。  気がつくとそんな生活が半年ほど続き、みっともなくついていた浮き輪は空気がしぼむように減って行き、2年も経つとついにはなくなってしまった。  浮き輪が取れた。  ある日、会社から肩を叩かれた。思っても見なかったリストラ。  上司から言われた言葉は「付き合いが悪い」の一言だった。  お腹の浮き輪は取れたが、社会の荒波に漂うすべをなくしてしまった。
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