思い出の彼女

2/3
前へ
/159ページ
次へ
瞬間、そう思ったけれど、今ここで、父を(なじ)るわけにもいかない。 大事なお客様の可能性も、無きにしも(あら)ず、だし、そうだった場合、取り返しのつかない事になる。 敷居の手前で、由佳は両手を付いて、ご挨拶をする。 「楠田由佳です。」 「神崎(かんざき)靖幸(やすゆき)です。」 彼も、席から頭を下げて挨拶をしてくれる。 年は、由佳の3、4歳上くらいに見えた。 明らかに仕立ての良いスーツ。 そして、その名前だ。 「神崎様…」 神崎ホテルグループの創始者の一族、ということだろう。 神崎ホテルグループは古くからある、由緒正しきホテルであり、格式ある古いものから新しい最新のものまで、いくつかのホテルをチェーン展開している、巨大なホテルグループだ。 彼は、その創始者の一族のうちの誰かなのだろう、と推察された。 「由佳さん。こんにちは。」 「はじめまして。」 何故か、神崎の向かいに由佳は座らされる。 なぜか、もなにもないか…。 おそらくは、お見合い。 けど、いつかはそういうことがあるとは思っていた。 なので、特段驚きはしないが…。 由佳が驚いたのは、その相手だ。 いくら格式があると言っても、『くすだ』は所詮は一介の料亭に他ならない。 そこに、神崎家の御曹司とは。 普通に食事が始まり、父は珍しく、座敷に残り、料理の説明をする。 一通りの説明を終えると、席を外した。 由佳は神崎と共に残され、食事を共にすることになる。 さすがに神崎は、食事の仕方も綺麗だった。 「由佳さん…お綺麗ですね。」 「ありがとうございます。」 ふっと笑いかけられて、ん?と由佳は首を傾げた。 「やっくんって呼んでくれないんですか?ゆーちゃん。」 ゆーちゃん…?? なんだか、聞き覚えが…。 「軽井沢で…かくれんぼしましたよね。僕は、あなたを連れ出して、ひどく怒られました。」 小学校低学年くらいのことだったと思う。 オーベルジュで食事を終え、建物内を散策していたら、兄と同じくらいの歳の少年に声をかけられたのだ。 同い年くらいの子はいなかったので、とても楽しかった。 仲良くなって、確かに少し遊んだ覚えがある。 「あの時の…?」 「はい。だから、今回お会い出来るのを楽しみにしていたんです。」 「私が退屈して、遊んでくれただけなのに、怒られたんですか?ごめんなさい…。」 くすくす笑われた。 「昔のことですよ。」 全く知らない人よりも、良かったけれども。 「由佳さん、今デパートにお勤めなんですって?だからかな、本当にお綺麗になられたんですね。お父様も嬉しそうでしたよ。ご自慢の娘さんなんですね。」 「父が…?」 「ええ。しっかりしていて、自立している。勤務先でも、中堅の立場のようで、自慢の娘だって、言ってましたよ。」 由佳にしてみれば、厳格な父しか知らず、そんな風に他で、由佳のことを言っているなんて思わなかった。 「知らなかったです…。父がそんな風に…。」 「弱みを見せない方ですからね。(こう)くんがおうちを出られた時も、相当なショックだったようですから。」 紘、が兄の名前だ。 「ご存知なんですね。」 「ええ。聞いて欲しいんですが、全てを含んだ上で、結婚を前提にお付き合いしていただきたい。」 「勿体ないです…。」 「いいえ。今日お会いして、その振る舞いを見ていたら、あなた以上に僕にふさわしい人はいないと思いました。」 真っ直ぐな瞳で見つめられ、由佳は戸惑う。 「とても…とてもお気持ちは嬉しいんですけど、そもそも今日、なぜ、この席を用意されていたのかも…。私は、何も知らずにここに来たんです。」 「ふうん…そうなんだ…。」 神崎は少し考えるように、首を傾げている。 「では、まずは、少しずつ知り合ってゆくのはいかがですか?」 ふわりと由佳にむかって、神崎は柔らかく微笑む。 「神崎さん、おモテになるでしょう。」 「そうですね。そんなことはない、とは言わないです。でも、僕はそういうのと、結婚は別だって思っていますから。」 キッパリと、そして、冷静にそう返された。 「え…?」 「あなたもそうじゃないですか?自分はそういう立場ではないと、自覚されて育ってきた方かと思いました。 この席のことは知らされていなかったとおっしゃっていましたけど、その振る舞いには…こう、見惚れてしまうものがありました。様式美のような。さすがだなって思いました。」 とても、冷静に淡々とそう言われて、由佳は納得する。 そうか…ふさわしい、奥様が欲しいってことなのね。 「私がふさわしい、とは思えませんが。」 「普通の女性はそんなことは言わないです。」 ふっと彼の口元に浮かぶ、皮肉っぽい笑み。 神崎家の御曹司。 彼と結婚すれば、玉の輿だと、群がる女性は多いだろう。 それだけではなく、この容姿だ。 整った顔立ち、明らかに仕立ての良いスーツ、洗練された立ち居振る舞い。 そうか…この人も自分を見てもらえず、自分の背景にあるものや、別のものを見ているんじゃないかって、つい、疑ってしまうんだろう。 「それに、あなたは信用できそうだ。」 「信用…?」 「僕のことを好きではないから。」 「好きだから信用できるのでは?」 「いえ?恋愛感情で盲目になっている人は…きっと冷静な判断はできないでしょう。信用できないのは、その冷静ではない判断力です。」 では、この人も、別に私のことを好きではないんだろう。 由佳も冷静にそう思ったけれど。 まだ、踏み切ることはできなかった。 「では、少しずつ知り合う、ということで、お願いいたします。」 「はい。では、お食事に行ったり、少しずつ、していきましょう。」 「はい。」
/159ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6567人が本棚に入れています
本棚に追加