思い出の彼女

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デパートのいちばん忙しい時間は、夕刻の就業時間が終わってからだ。 日中は、割と店内は混み合うことは少ない。 とは言え、発注や、シフトの管理、商品の確認、顧客管理などやることはたくさんある。 「楠田リーダー、これで発注、いいですか?」 「んー、定番はもう少し増やしてもいいかな。逆にこの辺のはそんなに出なくない?」 部下が、由佳のところに発注用のタブレットを持ってくる。 由佳はそれを確認しつつ、アドバイスする。 「そうなんですけど、今度雑誌で取り上げられるらしいんですよねえ。」 雑誌に取り上げられたから、動くのではないか、という予想なのだ。 一生懸命考えて、持ってきたのだろうと思うと、微笑ましい。 これも、お勉強かな。 「じゃあ、少しだけ、調整してくれる?思った通りでいいから。」 「はい!」 強い発色のものは、一瞬目を引かれたりするけれど、実際、店頭で商品として購入されるのは、基本的には定番が多いのが、ブレアだ。 由佳も、一時的な流行りものとしてではなく、長期的に愛用してほしいなあと思っている。 「由佳さん。」 「はい。」 すらりと背が高い、スーツ姿の男性はとても目を引く。 そして、日中のこの時間。 しかも、スマートだし、デパートでも物怖じしないほどの品格。 「さすがに、女性ばかりで気が引けますね。」 そんなことを言って、笑っているのは、神崎靖幸だ。 「神崎さん!」 「どうぞ、靖幸と。たまたま近くに打ち合わせで来たので、寄ってみたんです。」 柔らかい笑みや、人当たりの良さは、自身も接客をしているからなのだろうか。 気が引けるとは言っているけれど、そんな気配は微塵も感じない。 「差し入れです。」 手に持っていた紙袋を、由佳に差し出した。 ホテルに入っている、ケーキ専門店の焼き菓子のようだ。 「え…こんなこと…。困ります。」 すると、神崎はにこりと笑う。 「打ち合わせで美味しかったので、あなたに食べてほしかったんです。」 美味しかったから、食べてほしい。 その理由では、由佳は断れない。 「ありがとうございます。お店の子達、喜ぶと思います。」 「とんでもない。当然ですけど、女性ばかりですねえ…。」 神崎はもの珍しそうにキョロキョロしていた。 その様子を見て、つい、由佳は笑ってしまう。 いつも、神崎はどこにいても堂々としていて、余裕があるように見えるから。 「店員も、お客様も女性が多いですからね。」 「こんなことでもなければ、足早に通り過ぎそうですよ。」 周りに目を向けないようにしながら、さっさと歩く姿を想像すると、さらに笑える。 「皆さん、そうおっしゃるんですけど、男性の方もプレゼントとか買いにいらっしゃるので、全くいないってわけでもないんですよ。」 「その方、なかなかの勇気の持ち主ですね。」 真顔で言うから、由佳はなおさらおかしくて。 その由佳が笑っているのを見て、神崎は目を細めた。 「可愛いです。」 「え…?」 「この前は、そんな笑顔、見れなかったので。」 「そ…うですよね…。」 きっと始終硬い顔をしていただろう。 「今週は予定が詰まっているので、お誘いできないんですが、来週、お時間のある日にお食事でもいかがですか?」 少しずつ、というその約束を守ってくれているのだ。 「あのっ…私…。今は、誰かとお付き合いするとか、ましてや結婚なんて、…本当に考えてないんです。この前だって、あんなことだと知っていたら、行きませんでした。」 「では、それについてもお話ししましょう。どこか、手配しておきますね。」 お仕事の邪魔をしてもいけないから。 そう言って、軽く手を振って、神崎は去っていった。 その後、この差し入れは誰からだ、と言う質問に辟易した由佳なのだった。
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