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「そんなことなら…、構いませんけど。」
「本当に?」
「はい。単なる身代わりですよね。それにお困りだって仰っていたし。」
最低!とかなじられているところまで、目撃してしまったし。
「見られていましたよね。」
彼は少しだけ、バツの悪そうな顔をして、眼鏡を指で押し上げる。
指、すらっとしてて、キレイだな…。
つい、ぼんやりとそれを目で追ってしまって、由佳はハッとした。
「見てないですよ。最低とか言われてたとか。」
はあっ、と彼はため息をついた。
「本気になられると、困ると思ったので、そう言ったんですけど、言い方が不味くて、怒らせたんですよ。」
「遊びだったんですか?」
「遊びはしてないです。本気ではなかっただけ。」
なんと、大人な言い訳か。
解釈が難しすぎる。
遊びではないけど、本気でもない。
「それは、難しすぎますよ。誤解されて、最低って言われても仕方ないですよ。」
「あなたは、分かるんですか?」
「頭良くないので、そのまま受け取るだけなんですけど。遊びではないんですよね。けど、本気でもない。ただそれだけじゃないんですか?」
「そう。ただそれだけです。」
目の前の男性は、やたらと楽しそうな表情になった。
「けど、楠田さんがご一緒して下さるなら、大変に助かるのですが、いかがでしょうか?」
「分かりました。いいですよ。」
大したことではないのだし。
「ありがとうございます。」
ふわりと笑った彼に、やっと、少しの温かみを感じた。
それを見て、由佳の胸の奥がきゅっとする。
ん…?
なに…今の…。
けれど、由佳はそれが何か気付かなかった。
帰り際に、外で待っている、と言われ、デパートの外で待ち合わせをする。
彼は相変わらず、一部の隙もないスーツ姿で。背筋を綺麗に伸ばして立っている姿は、極めて目立つ。
それに、眼鏡をかけた、整った容貌に、影のある雰囲気なのだ。
それは、モテるよね…。
ちょうど、買ったばかりのワンピースがあったので、今日、着てきた私服ではなくて、そちらに着替えて、由佳は彼に近づく。
そんな格好だとは思っていなかったのか、彼は少し目を見開いた。
「綺麗ですね、楠田さん。」
「ありがとうございます。」
どこに、なにをしに行くのか、そういえば確認していなかったけれど、一応、化粧もきちんと直してきて、それなりに、華やかな雰囲気にはなっている。
「では、行きますか。行きながらご説明します。」
「はい。…あの、お名前伺ってもいいですか?」
「お…伝え、してませんでした…?」
「ええ。」
くっと彼から笑い声が漏れる。
んん…?
「あなた、名前も知らない人についてきちゃったんですか?」
あはは…と遠慮なく笑われて、由佳はむっとしてしまった。
困った様子だったから、お助けしようと思ったのに、笑う?
まあ、確かに知らない人についてきちゃったと言えば、そうなんだけど…。
眼鏡の奥の笑って、ふっと細められた目が、ひどく柔らかい気がして、由佳の心臓はドキンと音を立てて跳ねた。
「大変失礼しました。私、こういうものです。」
スーツの内ポケットから、出した名刺入れから、綺麗な所作で名刺を取り出した彼は、由佳にそれを渡す。
「秘書室、大藤久信さん…。え?デパートの役員秘書の方ってことですか?」
「はい。」
大藤はにっこりと笑った。
そう言われてみれば、隙のない感じがするし、きっちりしていそうだ。
「お客様のご案内なんか、されます?」
「あまり…しないですね。秘書なんて、裏方ですから。役員とお約束のある方をお迎えにでたり、役員が、即時対応できない時などは、たまに対応したりはしますけど。」
なるほど…、では、その時に姿を見かけたのだろう。
「なぜです?」
「あ、以前、一度1階で姿をお見かけしたなあと思いまして。」
「店頭に出ることはほとんどないですよ。」
さらりと彼は流す。
仕事のことは、あまり話さないのかもしれない。
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