思い出の彼女

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思い出の彼女

帰ってきなさい。 父の命令は絶対だ。 由佳は、はふっと、ため息をついて、着ていた服をぬいだ。 本当に、相変わらずなのね。 これが嫌だから、家を出たのに。 母からも先程、『普段は一人で住んでいるのだから、お父さんが言った時くらい戻ってきて。』と連絡があった。 兄が、ふらりと家を出てから、父は由佳に殊更厳しくなった。 最初は、ブレアへの就職すら認めなかったくらいだ。 家出同然にうちを出て、仕事をしている。 それでも、帰ってこい、と言えば帰ってくる、と思っている。 帰りますよ。 それは。 親は親として、尊敬はしているのだ。 ただ、好きにはなれないだけで。 シャワーを浴びてから、家に向かおう。 そう、思ったところ…鏡を見て、由佳は絶句した。 胸の辺りに散る、花びらのように、情熱的な赤い跡があったから。 ほとんど、服に隠れて見えない場所ではある。 けれど…、 忘れるなんて、させないかのように。 なかったことになんて、させないですよ、と刻みつけられたかのようだ。 でも、好きにはなりませんから。 振り切るように、鏡の前から離れて、由佳はシャワーを浴び、胸元が隠れる服を着て、メイクをする。 この仕事をするようになってから、メイクをする時間は、由佳にとっては、スイッチを入れる時間になっている。 ナチュラルメイクであったとしても、メイクをしている自分は、大人の自分だ、と。 綺麗にメイクを仕上げて、最後にパフュームをかけて仕上げる。 すると、それをちょうど見ていたかのように、ピンポーンと呼び鈴が鳴る。 「はい。」 『由佳さん、お迎えに上がりました。』 父の運転手だった。 「今、行きます。」 由佳はとある料亭の娘だ。 それは、この辺りでは、とても格式のあるお店で、未だに紹介者がいないと敷居を跨げない、というような店で。 出す料理へのこだわりはもちろんのこと、人格、品格までも問われるような店だ。 子供の頃から、父は厳格で近付きづらい人だった。 夏休みに家族で出掛けたことも、ほとんどない。 年に2度出掛けるのは、夏は軽井沢のオーベルジュで、冬はホテルに泊まる。 どちらもメインはお食事だ。 はしゃいだりしたら、即怒られた。 子供にとっては楽しいものでもないお出かけ。 由佳には、4歳歳上の兄がいる。 兄は子供の頃から、和服を着せられ、お座敷にご挨拶をさせられるような生活をしていた。 おっとりしていて、穏やかな人。 父に逆らうなんて、思いも及ばないような。 だから、誰もが自然に兄が家を継ぐもの、と考えていたはずだ。 『くすだ』は安泰だと。 『すみません。おそらく、お父さんの期待には応えられないと思います。』 そう、書き置きを残して、ふらりと消えた兄に父は何も言わなかった。 黙って怒っていただけだ。 ただ、由佳にはとても厳しくなった。 そもそも、由佳も兄が店を継ぐもの、と思っていたので、過剰に厳しくされたことは無い。 就職はそんな父への、反発でもあった。 車は、お店の表口の車寄せにつけられる。 「え?こちらから?」 「はい。お父上から、そう伺っています。」 関係者を正面から入れることはない。 だから、思わず由佳はそう聞いてしまったのだが、父の指示と聞き、なぜなんだろう、と一瞬思った。 日本家屋から、人が出てきて、車のドアを開ける。 「由佳さん。どうぞ。」 「ありがとうございます。」 案内してもらった部屋の中には、奥に見知らぬ男性が座っていた。 その向かいには父だ。 やられた。 由佳の頭にそんな言葉が思い浮かぶ。
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