3人が本棚に入れています
本棚に追加
……やばい。
俺は背中に汗が伝うのを感じた。
100円だ。
100円足りない。
今日は、彼女との初めてのデートだった。デートコースの最後、高級レストランでの会計。支払いの段階になって、手持ちの金が100円足りないことに気づいたのだ。
「マジかよ……」
思わず、つぶやきが漏れる。
無意識に、床に視線を走らせた。もしかして、どこかに100円が落ちてないないか。むろん、落ちていない。
くっ、こんなことならちゃんと電卓かなにかでデートの予算を計算しておくんだった。頭の中でのどんぶり勘定が、こんな致命的なミスにつながってしまった。
どうすればいいんだ……。
俺は抱えたくなる頭をフル回転させた。
彼女から借りる、というのが一番早い解決法だろう。だが、できない。なにしろ、今日は初めてのデート。この状況でお金を借りるなどという醜態をさらせば、確実に今日が初めてにして最後のデートになってしまう。口説いて口説いて口説き落として、やっとここまでこぎつけたのだ。彼女にお金を借りるという選択肢はない。
ああ、まずい。そろそろレジの人や彼女の視線が、いぶかしげなものに変わってきた。ちくしょう、ここまでか。
と、その時、いきなり周囲の人間が動きを止めた。彼女もレジの人もいぶかしげな視線を固定させたまま、呼吸すら止まっている。
な、なんだ?
「お困りのようですね」
そう、背後から声がかかる。
俺が振り向くと、そこに身なりのいい紳士が立っていた。
「な、なんなんだ、あんた?」
「私は未来で貴方に大恩を受けた者です。タイムマシンに乗って、この時代に来ました」
未来人? タイムマシン?
「いま、特殊な装置で時間を止めているのです。なにやらお困りの様子ですが」
「あ、ああ。実は」
かくかくしかじか、と事情を説明すると、紳士はうなずき、
「分かりました。私が100円を差し上げましょう」
「いいんですか? た、助かります」
「いえいえ、こんなことならいくらでも。私が貴方に受けた恩に比べれば」
俺に100円を渡すと、紳士の姿がすぅっと消えた。
呆然としていた俺の周囲で、人々が動きを取り戻す。
「ねぇ、どうしたの?」
彼女が不思議そうに聞いてくる。
「あ、ああ、なんでもないよ」
そう言って、俺は冷静さを装い、レジの会計を済ませた。
外へ出た俺は安堵のため息をつく。これで、あとは彼女を家まで送り届ければ、ミッションコンプリートだ。
それにしても、さっきの紳士、ほんとに未来から来たんだろうか。俺に受けた大恩っていったい?
と、そこでいきなり車のブレーキ音。衝撃とともに、俺の意識は闇に飲まれた。
救急車が到着する様子を物陰から見ていた紳士は、ぽつりとつぶやく。
「貴方が臓器提供してくれたおかげで、私はこうして生きていられる。それを考えれば、100円など安いものです」
最初のコメントを投稿しよう!