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華(はな)
平成も終わりに近づいた4月半ば過ぎ、孝一郎は妻の実家を訪れていた。
一人娘の妻と母が祖母の一周忌法要に向けた準備を懸命に進めている。
孝一郎はそんな母娘の「邪魔にならないように」という妻の父の大義名分を都合よく借りて、近くの温泉に出掛けてみたり、街育ちの彼にとっては物珍しい自然が豊かな妻の実家の周りをぶらぶらと散策して一日を過ごした。
準備万端に整ったその日、昼前には親類たちが続々と訪れ始めていた。
孝一郎は見様見真似でこの地の仕来りに合わせた挨拶をし、親戚たちが遠慮していつまでも空いたままの仏間の一番先頭の座布団に結局のところ座ることになった。
母娘の表情に少しの緊張が増し、どうやら「お寺さん」が到着したようだ。
以前にも見覚えのあるでっぷりとしたお坊さんが慣れた足取りで、孝一郎たちが控える奥の仏間にやって来た。
大きな仏壇の前に用意されたひときわ豪勢な座布団へと仏衣の主を招き入れ、親類からの挨拶が取り交わされる。
母親の指示に従って妻がお茶とおしぼりをお坊さんの前に準備する。
佇まいを整えながらお坊さんは、晴れ渡った今日の天気のことや、このところの寒暖差の激しい天候のことなどを親類の中でも一番の大御所である伯父と話している。
それらのやりとりを孝一郎はもっともらしい表情で周りの親戚たちに合わせてうなずきながら「うんうん」と聞いている。
やがて、申し合わせていた時間になると妻の父親がすくりと立ち上がり型通りの挨拶を済ませる。
それを受けて仏壇の前でお坊さんは座り直し、しんと静まった中でお経を唱え始めた。
孝一郎は座布団の上で数珠を手に掛けて、今日はまさに「思索にはもってこいの陽気だ」と窓から見える雲ひとつ無い青空を見上げた。
これからしばらく続くお経の間、孝一郎は思索を巡らせるつもりである。
お経のありがたい内容が大人になればわかるのだろうと思っていたが、その点において未だ彼は幼少のままだった。
自由を制限されたひとときをいかに彼にとっての意義を見つけるかという問いは、今のところ思索の時間にするという答えでしかなかった。
暖かな陽気だと眠気が彼を襲う、その点、今日の涼しさはまさに絶好の思索日和と言えた。
寒いや暑い陽気だと、そのことばかりに気を奪われて思索どころではなくなってしまう。
少し肌寒いくらいの陽気が程よい緊張感を彼の頭に残していた。
「さて、どんな思索を巡らせようか」
孝一郎は目蓋の暗い中に透ける斑な光を眺めながらこのひとときのテーマを探す。
それにしてもお経の内容はさっぱりわからない。
英語の会話を聞いているときのように、たまに知ったフレーズが流れ星のように現れては消えていく。
後方に座る誰かが咳を堪えている、別の部屋で自由に過ごす姪の声がかすかに聞こえる、時を刻む仏間の掛け時計の音が存在感を増す。
絶好な陽気の割にいっこうに思索のテーマが見つからない。
孝一郎は一度、目を開けて仏間の中にテーマを探そうとした。
母娘によって見事にしつらえられた花瓶にいけられた華、仏壇の中のいつもよりも勢いよく高く燃える和ろうそくの炎、そして壁に掛けられた祖父とまだ新しい祖母の遺影。
できれば思索のテーマは仏事と異なることが望ましいと孝一郎は考えていた。
まったく違う領域で同時並行で進む物事が、何かの縁で化学反応のように混じり合うことで別の新しい何かが生まれることを期待していたからである。
テーマが見つからないまま次の経典へとお坊さんは手を伸ばした。
思索は頭の中だけで行うジグソーパズルのようなものだと孝一郎は考えていた。
テーマとなるひとつのピースを起点にして前後左右、さらには上下を加えた立体的な方向へと関連性を求めて思いを巡らせていく。
いくつか組み上がったら、頭の中でなぞってみて築き上げた形を確認する。
暗算は得意ではないが、論理的に頭で組み上げていく楽しさを孝一郎は理解している。
家庭に電気が普及していなかった頃、人が眠りに入るまでの布団の中で過ごす時間が思索にとって大切なひとときだったと孝一郎は聞いたことがある。
一日にあったことを頭の中で振り返り、いろいろな雑事を整理する貴重な時間が自由を制限された布団の中にはあったということなのだろう。
いっこうに起点となるピースが見つからないまま、仏間では焼香台が親類たちの間を巡回し始めていた。
焼香が始まるということは折角の思索の時間が終わりへと近づいてきたことを意味している。
香り立つ煙を前に孝一郎はもっともらしい所作で礼を済ませた。
どうやら孝一郎は起点のピースすら見つけることなく、思索日和のひとときを終えようとしていた。
すっかり開き直った孝一郎は手元の数珠をお経に合わせて音を立てないように手遊びをして回している。
仏壇の中の和ろうそくがあと僅かになった頃、お坊さんは親類に向かい一礼をしてお経を終えた。
妻の父親が締めくくると、仏間に漂っていた厳かな雰囲気が一気に解けていった。
正座を崩した親戚たちは、世相の話を、お坊さんを交え話し始めた。
もともとは流れていた川の水がお経の間だけ氷に変わり、また流れる水へと戻っていくようである。
別の部屋にいた姪も仏間に加わり、春の陽射しを浴びて芽吹く植物のように親戚たちにも笑顔が溢れる。
孝一郎の思索はいっこうに進むことがなかったが、自由を一時的に奪われる法事というひとときが彼にとって何かしらの意味があるということを少しだけ学んだ気がしていた。
明日になれば親類も孝一郎も忙しい毎日へと戻っていく。
その毎日は一見、自由なようでとんでもなく不自由な時間なのかもしれない。
むしろこの日の法事のひとときの方が、不自由なようで孝一郎にとっても貴重な自由な時間であったとも考えられなくもない。
母娘が準備したマイクロバスが実家の前に到着したという報告をもとに、一同は仏間を後にした。
孝一郎が足元を気にしながら玄関を出ると、突き出た玄関屋根の影がくっきりと浮かび上がっていた。
見上げると相変わらずの強い陽射しが青空を照らしている。
穏やかな風が吹き抜ける仏間では、優しい笑顔で祖父と祖母の遺影がいつまでも微笑んでいた。
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