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――今日は、悪行(あっこう)日和ですね。
あの日彼女は、ぼんやりと歩いていたぼくの顔を見るなり、突然そんなふうに声をかけてきた。すれ違い際、なんの脈絡もなく、本当に唐突に、だ。
今思うと、彼女からすれば、それを口にするというのは一種の決意表明のようなものだったのだろう。その想いを、きっと、誰かに伝えたかったのだ。
けれどその時のぼくからすれば、どうして初対面であるはずの彼女が話しかけてきたのか、どうしてそんな事を言ってくるのか、その理由が分からず、とまどい、訝り、曖昧に首を動かす事しか出来なかったのだった。
「これから、どこか行くの?」
ぼくがかろうじてそう言うと、彼女はうれしそうにうなずいて、笑った。背中の『それ』とは対照的な、屈託のない笑顔だった。
「はい。今からおでかけです」
「そう。ぼくは今から、仕事だよ」
「そうですよね。止めてしまって、ごめんなさい」
彼女はまた、くつくつと悪戯っぽく笑った。
正直あまり関わりたくない、というのが本音だったので、「じゃあ、ぼくはこれで」と別れを告げて、ゆっくりと歩き出した。
後ろから、彼女の足音が聞こえる。
ぼくは無意識の内に足を止めて、彼女の背中をもう一度見た。
彼女の方もそれに気づいたのか、振り返ってぼくの顔を見る。白くて長い髪が、大きく揺れた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……。さっき『悪行日和』って言ったけれど、あれって本気なのかな、と思って」
確かに今日は天気もいいし、風も吹いていない。あたたかくて、何をするにもいい気候だとは思う。
でも、悪行とはまた、穏やかではない。もし彼女が神の意志に背くような行為をするつもりならば、ここでそれを聞き出し、止めるのが正しい選択にも思えた。
じっと、彼女を見つめる。すると彼女は両手をおおげさにひろげて、「ほら。今日は、これだけいい陽気ですから。神様だって、きっとうたた寝しています。目を盗んで悪さするには絶好の日和ですよ?」と無邪気に言った。
「これから何をするつもり?」
「内緒です」
「仕事もしないで、ずいぶんと不真面目なんだね」
「はい。不真面目です」
彼女は楽しそうに、もう一度「わたしはとても、不真面目なんですよ」と言って――ふわ、と背中の『それ』をひろげる。
あ、と思った時には、彼女はもう声が届かないくらい遠いところまで飛んでいってしまっていた。
「…………」
目を細める。
不格好で薄汚れたその灰色の翼は、ぼくの脳裏に焼きつき、そして離れなかった。
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