冷凍治療

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冷凍治療

 その数年後、酒井豪は勤続30年の節目を迎え、会社から表彰と旅行券を贈られた。  余剰気味の有給休暇を消費するいい機会だと、豪は家族で海外旅行をすることに決め、その行く先は、大学4年生になった映画好きの彰良の希望でアメリカ西海岸になった。  今日はチャイニーズシアターで有名な映画俳優や女優たちの手形、足形を見た後、リトル東京へやってきて、お昼に日本食を食べることになった。  店のお品書きを見ながら、豪は真っ先に日本酒を頼む。旅行中でもあり、飲み過ぎて豪がいつもの醜態を晒すといけないので、妙子と彰良は気が気でない。  食事が進むにつれて豪の酒の追加が始まり、妙子がたしなめるも聞かず、旅行で気が大きくなった豪は追加を重ね、ついにぶっ倒れてしまった。  店の中は大騒ぎになり、そこに偶然居合わせた40代のジョン・エバンスと名乗るドクターが、豪の様子を見て急性アルコール中毒だろうと判断し、嘔吐物が喉につまらないように顔を横にすると、救急車を呼んだ。  豪の呼吸は不安定になり、Dr.エバンスは英語のできる彰良に豪の病歴や薬の服用の有無を聞き、到着した救急隊に必要事項を述べて、狼狽える妙子と彰良を救急車に乗せた。  Dr.エバンスは病院に電話をかけ事情を話すと、豪を乗せた救急車の後を自分の車で追いかけた。  病院のベッドに寝かされ、点滴を受けるが豪の意識は戻らず、酸素吸入などの措置が取られ、事態は深刻化していった。  心配して今にも倒れそうな妙子と、母を支える彰良に声をかけたのは、白衣に着替えたDr.エバンスだった。  Dr.エバンスはアリコ―の研究に関わる生命科学と外科医を兼任するので、豪の治療がすぐ行えるように、関連病院に搬送を頼んだことを説明した。  ただ、普段からのアルコール摂取量がたたり、豪の肝臓はかなり弱っていて、時差ぼけの上、多量のアルコールをあおったため、アルコールを分解できず急性アルコール中毒に至ったということだった。  このままでは命を落とすかもしれないと聞き、足の力が抜けて崩れ落ちそうになった妙子を、彰良が慌てて抱き留めた。  Dr.エバンスは眉間に寄せた皺を片手でほぐしながら、決心をしたように居住まいを正し、英語の分かる彰良に話を持ち掛けた。 「確実な結果を約束することはできないけれど、冷凍治療をすれば、もしかしたら可能性はあるかもしれません」 「アリコ―ってテレビで見たけれど、患者を手術可能になるまで冷凍保存する会社でしたね ?」 「そうです。この病院はアリコ―が経営する病院で、冷凍人間の解凍の研究にも携わっています。ここ数年、新種の生命体を使った解凍実験は、人間より大きな動物でも成果を上げていて、人間の解凍の許可は出たものの、まだ実際に人間の解凍は行われていません」  言葉を切ったドクターの先を読み、彰良が恐る恐る言葉を繋いだ。 「ひょっとして、父を実験体にしようというのでしょうか?」 「君は察しがいい。君のお父さんの肝臓は弱ってはいるが、まだ働いているし、君やお母さんから聞いた限りでは他の病歴は無い。今検査をすることができないので何とも言えないが、問題は急性アルコール中毒だけだ。ただ、急性アルコール中毒に対しての医療措置は食塩水などを入れてアルコールを薄めるのと、呼吸を確保する程度で、急激に血液のアルコール濃度を下げて命を救うことはできない」 「では、もし父が助からなかったとして、その体を冷凍して解凍したとしても、父は生き返らないんじゃないですか?」 「いや、先ほど言ったように、血液中のアルコール度を薄められれば何とかなる。冷凍人間にする際には、心臓停止に至ると同時に行うプロセスの中に血液を全て抜き、代わりに保存液を入れる作業がある。あとは新種の微生虫が冷凍中の身体全体に繁殖するのを待って解凍し、保存液とアルコール濃度を下げた血液を再び入れ替える。血液は元々本人のものだから拒絶反応が起きる心配もない。もしそれでも意識が戻らない場合は、脳の移植を望む患者に提供して、他の身体で生きてもらうこともできる。上手くいけばお父さんは自分の身体のまま、生き返ることができるかもしれない。どうだろう?時間も残り少ないが決心してもらえないだろうか?」 「費用は一体どのくらいになりますか?払えないかもしれない」 「私たちの実験に協力すると言う同意書をもらえれば、費用は要りません。もし今回の実験が成功すれば、私たちにとっても偉大な一歩になる」  彰良は頭を抱えながら、豪を冷凍保存して解凍すれば、もしかして助かるかもしれないというドクターの仮説を、妙子に翻訳して聞かせた。  豪に繋がれた生体情報モニタの画面上の観血血圧、心拍出量、体温の直線が曲線を描かず平坦に近づき、危険状態時に鳴るアラーム音が大きくなって、二人の心を圧迫した。  俯き加減で真剣に考えていた妙子が顔をあげ、Dr.エバンスに真っすぐな視線を向けてお願いしますと口を開くと、Dr.エバンスはよく決心してくれたと言うように妙子の肩を叩き、助手に冷凍保存の準備を言いつけ、同意書の書類を持ってこさせた。     彰良が訳した内容に頷き、妙子が同意書にサインをすると同時に慌ただしくなり、待機していたスタッフが、豪をベッドごと隣接する研究棟へと運んで行った。  研究室へと続く扉が閉まると妙子は堪らず涙を流した。    数か月後、豪は脳内が脈打っているような、グワングワン鳴る耳鳴りで目が覚めた。  眩しすぎて薄っすら開いた瞼をまた閉じる。 「おおおっ!」と上がった歓声に驚いて、飛び起きようとしたが、身体が固まったようにぎくしゃくして動けず、ゆっくりと目を開いて顔を巡らせた。 「何だこれ!?一体誰だ?何で俺はここに?」    もつれる舌で発した不確かな言葉や、自分を見下ろしているのが外人ばかりだということに気付き不安になった。  少しずつ動くようになった身体を起こして周囲を見渡すと、その人垣の中に、破顔した妻の妙子と息子の彰良を見つけ安堵の溜息をもらす。  妙子と彰良は手を取り合って、喜んでいる。  一体何がそんなに嬉しいのだろう?と疑問を持ったのも束の間、妙子と彰良が抱きついてきた。 「あなた、私が分かる?気分は悪くない?」 「お父さん、目が覚めて良かった。生き返った感想は?」 矢継ぎ早の質問に、まだ鈍い頭の回転がようやく追いついた豪は、その質問の特異さに首を捻った。 「何でお前の顔を忘れるんだ?それに生き返ったってどういうことだ?どうしてここに外人が一杯いるんだ?」  いつの間に自分はこんなに言葉を発するのが大変になったのだろうと思いながら、豪はゆっくりと疑問を声にする。 「あなた、3か月前に家族旅行でアメリカに来たのを覚えてる?」  豪は靄(もや)のかかったような記憶を手繰り寄せ、おぼろげながら飛行機に乗ったことや、俳優の手形足形を見て回ったことを思い出した。 「うん、覚えてる」 「じゃあ、父さんが飲み過ぎてぶっ倒れて、病院に運ばれたことは覚えてる?」  集中しないと霧散してしまいそうな記憶を再度かき集め、豪はリトル東京で入った日本料理店で、酒を次々あおったことを思い出した。 「ああ、何となく・・・」  3人の会話を、Dr.エバンスが彰良に翻訳させ、周囲がまた湧いた。 「あなたは急性アルコール中毒で病院に運ばれたの。Dr.エバンスがすぐに対処して下さったのだけど、昏睡状態になって死にかけたの」  長い文章になると、理解力が追い付かない豪は、最後の言葉だけを繰り返した。 「死にかけた?誰が?」 「お父さんがだよ」 「彰良、悪い冗談はよせ。じゃあ何か?俺は幽霊か?」  顔をしかめる豪に優しく微笑んで、妙子が説明をする。 「本当のことなの。あなたは冷凍治療を受けたのよ」 ただでさえ、集中力が続かない豪は、完全に理解不能の言葉を告げられ、ベッドに再び横たわった。 「疲れた。寝る」  それだけ言うと、すぐに瞼を閉じて眠ってしまった。  慌てた妙子と彰良が、Dr.エバンスを振り返ると、豪の瞼を指で押し開きライトで瞳孔を確認し、モニターの心音や血圧などを確認してから、Dr.エバンスが大丈夫だと頷いた。 「まだ目覚めたばかりなので、脳が活性化するには少し時間がかかります。眠っては起きてを繰り返し、だんだん長時間起きられるようになります。MRIやCTRなどの様々な検査をクリアしたら日本へ帰れます。時々指定した日本の病院で定期検査を受けてもらいますが、仕事への復帰に向けてリハビリ体制も整える予定です」  心強い言葉に、妙子も彰良も自然に頭を垂れ、深々と腰を折ってお礼を述べた。 「ありがとうございます。先生がいなかったら今ごろ主人はと思うと、感謝の言葉も見つかりません」 「あなたの決心があったからこそです。今回の成功でこれからの冷凍保存や、治療の可能性に、より一層の希望が持てました。我々こそあなた方ご家族にお礼を言いたいです」  しっかりと手をとりあったDr.エバンスと妙子に向けて、今回の奇跡に立ち会った関係者らは、拍手とおめでとうの言葉を惜しみなく送ったのだった。
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