第1話 不思議な手のひら

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第1話 不思議な手のひら

 体が軽く感じる。  気がつくと、もう何分もボールを持って走り回っている。それなのに今日は全然疲れてない。 「今だよ真純、シュート!」  リオの声を合図に、私は跳ねるように足を進め、ゴール下でジャンプした。そして両手で持っていたボールを右手に移すと、ゴールに向かって腕を伸ばし、軽く投げ上げる。  ボールは一度リングに当たり、大きく跳ね上がった。リオと私は息を飲んでボールの行方を見つめる。  そんな私たちをさらにハラハラさせるかのように、ボールはたっぷり三度バウンドして、やっとゴールに吸い込まれていった。 「やったよ、できたよリオ!」 「うん、やったやった! すごいよ真純」  私はリオと両手を合わせ、くるくる回って喜んだ。  シュートが一度入ったくらいでこんなにはしゃいでいるなんて、変な二人組かもしれないな。だけど、運動神経がかなり鈍い私にとっては、走り回ってドリブル、シュートができただけでも、大きな進歩だ。  体育祭に出場してから、私は運動をすることにちょっぴり自信がついた。  相変わらず体調を崩すことはあるけれど、体育の授業は大体参加できてるもんね。これは自分的大ニュースだ。  私が頑張れるのはきっと、練習に付き合ってくれる友達がいるからなんだろうな。  感謝の気持ちを伝えようと、私は隣にいるリオを見た。  言葉にする前に気持ちが通じてしまったのか、リオは照れくさそうな笑みを浮かべ、私の背中をばしばしと叩いた。さすがはソフトボール部のエース、腕力が半端なく強い。  私たちはバスケットのコートを縁取る芝生に移動し、少し休憩することにした。まだ余力があるときに休んでおけば、貧血でふらふらする確率は低くなる。これも体育祭の練習で学んだことだ。 「真純、本当にバスケうまくなったよ。これなら次の体育、結構得点できるんじゃない?」 芝生に足を投げ出すようにして座ると、リオは朗らかな表情を私に向けた。 「本当? だったらいいなあ」 「まあもちろん、私のコーチの腕がいいからだけどね」  リオは胸を張って、ちゃっかり自分のことも持ち上げている。 「ははー、名コーチ、リオ様に教えていただき、誠に光栄でございます」  大げさにお辞儀をしてみせる私。するとリオはますます胸をそらし、得意げな様子になった。  そんなリオが可愛くて、私はさらにほめ言葉を連発した。大げさな言葉を並べ立てているうちに、リオの身分は名コーチから神様にまで進化してしまった。なんだかおかしくなってきて、しばらく二人で笑い転げる。 「まあ冗談は置いといてさ、真純、体力ついたねえ。結構ハードに走ったのに、全然疲れてないみたいじゃない?」  ふと真顔に戻ったリオが、私の顔をのぞき込んで言った。それは自分でも思っていたことだったから、嬉しくなって大きくうなずいた。 「そうそう、なんかね、最近調子いいんだ。すごーく体が軽くて、飛んでっちゃいそうなくらいだよ」 「おおっ、すごいじゃん! じゃあ試合では真純にボール回してくから、ばんばんシュート決めてよね」 「お、お手柔らかにお願いします」 「あー、楽しみだなー、真純のダンクシュート」  リオはさらりととんでもないことを言っている。すっかり私をからかう態勢に入っちゃったみたいだ。 「ええー、ハイレベルすぎるよー。とりあえずは、体育に無事参加することから目指したいよー」  なんだか、軽口を言い合っていたら、もっと体が軽くなったような気がする。十分休憩できたし、もう少しシュートを頑張ってみようかな。  そう思って何気なく視線を上げると、校舎の時計が目についた。練習を始めてから、結構時間が経ってしまっている。 「リオ、部活は大丈夫?」  気になっていたことを尋ねてみると、リオは口をあんぐりと開けて固まったあと、すごい勢いで振り向き、時計に目を向けた。 「ああっ、しまった! 今日レギュラーメンバーの発表があるんだった!」 「それなら早く行かないと。私は、もうちょっとここで練習していくよ」 「わかった。じゃあ行ってくるね」  返事をしながら、すでにリオは駆け出していた。私はその背中に、さっき言いそびれた言葉をかける。 「リオ、忙しいのに練習付き合わせてごめんね。シュート教えてくれて、ありがとう!」  振り向いたリオは、思い切り唇を突き出した、おかしな表情をしていた。きっとものすごく照れているに違いない。 「もう、何言ってんのさ。そんなこといちいち気にしなくていいから、練習は、ちゃんと休みながらするんだよ」 「はいっ、コーチ!」 「よろしい」  リオは大きく手を振ると、今度こそ風のように部室棟に向かって走っていった。  私も手を振り返し、しばらく見送る。リオってば、相変わらず足が速いなあ。それにしても、あんなに急ぐほどギリギリまで付き合わせちゃって、悪いことしちゃったな。  その分、私も自主練習を頑張ることにしよう。ダンクはさすがに無理だけど、リオからのパスで、シュートを決めてみたいもの。  私は気合いを入れ直すと、足下のボールを再び手に取った。  頭の中でシュートまでの工程を何度も繰り返してから、ドリブルを始めた。ゴール下まで移動して、それから……  リオに教わったタイミングを思い出しつつ、右手のボールを放す。  今度は、ボールはどこにもぶつからず、すとんとバスケットゴールの真ん中を抜けていった。  また入った! さっきのはまぐれだったのかも、って不安に思ってたけれど、二回連続で入るとちょっぴり自信がついちゃうな。  嬉しさが体中を駆け巡る。思わず小さくガッツポーズを取っていると、小さな音がどこからか聞こえてきた。  二度、三度、同じ音がする。この音は聞きなじみのあるものだ。カメラのシャッターの音。それも、今では珍しいフィルムカメラだ。  探すまでもなく、カメラの持ち主はすぐそばにいた。 「谷崎くん!」 「当たり」  短く答えた谷崎くんは、ゴールから一メートルくらい離れた場所で、カメラを両手で構えて立っていた。  あれ、いつの間にこんなに近くで写真を撮っていたんだろう。練習に夢中になっていたとは言え、全然気づかなかった。  私が突然現れた谷崎くんをぽかんとして見ていると、彼はカメラを構えたままで、私の元へ歩いてきた。  そして手で触れられそうなほど近づいてから、もう一度シャッターを切る。レンズはしっかりと、私の顔を向いていた。  突然至近距離で顔を撮られてしまった私は声を上げ、慌てて顔を手で隠した。きっと今の私は、ものすごーく間抜けな顔をしていたに違いない。 「谷崎くんひどいよー。黙って撮るのは、なしだって言ったのにー」 「ああ、悪い」  そう答えつつ、あまり悪いとは思ってなさそうな顔で、谷崎くんはやっとカメラを下ろした。 「撮っていいか、真純」 「尋ねるの、遅すぎるよ……」  私ががっくりとうなだれると、谷崎くんは小さく肩を震わせた。  いつものように、笑うの我慢してるみたいだ。そしていつものように我慢できなくなって、手で押さえた口からおかしな笑い声を出し始めた。 「もう、どうしていつもいつも、私を見て笑うの? 私、そんなに変なことしてないでしょ?」  毎日顔を見て笑われたのではたまらない。ここら辺でばしっと言っておかなくては。  そう思って抗議をしてみたけど、谷崎くんには全く効果はなかった。それどころかもっと嬉しそうな顔になる。  私は谷崎くんが笑いの発作から抜け出るのを、途中で突っ込みを差し挟みつつ待っていた。  ふざけたやり取りになってしまったせいか、本当に思ってること、今さら谷崎くんに言いにくくなっちゃったな。  だから胸の内だけで、こっそりとつぶやいてみることにする。  本当は谷崎くんに写真を撮られるの、嫌なんかじゃないんだ。  さっきは恥ずかしくて、つい文句を言っちゃったけど、谷崎くんがファインダーをのぞき込むときの真剣な目も、潔いシャッターの音も、撮り終えたあとに目を細めて笑う顔も、本当に大好きなんだ。  谷崎くんの手元をじっと見る。両手にはカメラがしっかりと握られて、構えはとても力強い。  もういつかのように右手が震えることはなくなっていた。  こんな風に、息を吸うように写真が撮れるようになるために、谷崎くんは大変な努力をしてきた。  そのことを思い出すだけで、私は胸がいっぱいになってしまう。  ついでに目から熱いものがこぼれそうになったから、私は急いで顔を上げた。  さらにごまかすために、できるだけ瞬きをしないようにしながら、だいぶ落ち着いてきた谷崎くんに話しかけた。 「谷崎くん、グラウンドには被写体を探しに来てたの?」 「ああ。日暮れ頃、いい感じに光が反射する場所があるんだ。その時間になる前に他を撮っておこうと思って、校庭周りの木を見て回ってた」  谷崎くんは返事をしながら、私の顔に何か変わったものを見つけたような、不思議そうな表情になった。  もしかして泣きそうになってるの、気づかれちゃったかな。  その予感は的中しちゃったみたいだ。谷崎くんは眉を下げ、困ったような表情になって、私にぼそりとこう言った。 「また何か一人で考え込んでただろ。俺の右手のこととか、俺がどう思ってたとか、そういうこと」  当たりだ。どうしていつも谷崎くんは、私の考えてることまでわかっちゃうんだろう。 「俺なら、もう大丈夫だから。だからその……泣くな、真純」 「な……泣いてなんかないもん」  谷崎くんの声は優しくて、私はさらに泣きたくなってしまう。何とかこらえようとしているけれど、声が震えてしまってどうにも格好がつかない。 「嘘つけ。ほら、これ」  それまで持っていたカメラを手離し、首からかけているストラップに任せた谷崎くんは、不意に私の方へ手を伸ばした。  そのまま私の両手首を取り、ぐいっと引っ張りあげる。 「え、た、谷崎くん?」  驚きのあまり裏返った声が出てしまった。谷崎くんはつかんだ私の手をじっと見つめて、納得したみたいにうなずいている。 「ほらな。真純は泣くのを我慢してるとき、いつもこうやって手をぎゅっと握り込んでるんだ。あんまり力入れてると、爪で手のひらを傷つけるぞ」  そう言われて、知らずに握っていた手を開いて見てみた。確かに手のひらには爪の跡が残って、赤くなっている。  自分にこんな癖があったなんて、今、初めて気づいた。  ついでに谷崎くんの大きな手にがっちりと両手首を捕まえられてることに改めて気づく。触れられている部分がじんわりと温かい。  恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが、私の心の中でめまぐるしく変化していた。 「ご、ごめん。急に思い出の中に入り込んじゃってて。谷崎くん、あのときすごく頑張ってたなあ、今もすごく頑張ってるなあって思ったら、なんか胸がいっぱいになって……」 「俺だけが頑張ってるんじゃなかった。真純が隣にいてくれたから、頑張れた」  そう言いながら谷崎くんは、私の手のひらの赤くなっている部分をそっと、親指でさすってくれた。  今度こそ、こらえられなくなってしまった。あふれ出した涙は、私の頬から手のひらに二、三粒落ちてしまう。  谷崎くんはその涙も指でぬぐい去ってくれた。「本当に、よく泣くな」なんて言いながら。  しばらく、私たちは何も言わず、ただ手のひらを温めあう時間が続く。その静かな時間の中で、言葉よりもっとたくさんのものを谷崎くんから受け取ったような気がした。  谷崎くんの手は、不思議だ。
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