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第2話 彼の友達
ふいに遠くからホイッスルの音が聞こえて、私は我に返った。谷崎くんもはっとした表情になり、私の手を離す。
ホイッスルはサッカー部の集合の合図だったらしい。今は円を描いて座っている部員たちの中央で、監督が何か話をしているところだった。
「悪い……手首、痛くなかったか」
目はグラウンドに向けたまま、谷崎くんは控えめに言った。
「う、ううん、全然痛くなんてないよ。大丈夫だよ」
「なら、良かった」
手をがっちりと握られていたのはちょっぴり恥ずかしかったけれど、いざ離してしまうと、何だか寂しい。もうちょっとそのままでいたかった、なんて言ったら、谷崎くんは笑うかなあ。
「そうだ、今度の土曜、空いてるか?」
谷崎くんは制服のポケットを探ると、二枚の小さな紙を取り出した。
「土曜日?」
「ああ、写真展のチケットが二枚あるんだけど、一緒に行かないか」
「うん、行く!」
「いつもながら食いつきいいな、真純」
谷崎くんは口の端を上げ、にやりと笑った。
「だ、だって、谷崎くんと一緒に出かけられるのが、嬉しいんだもん」
「…………そうか」
……ちょっと、直球すぎたかな。けっして間違ったことを言ったわけじゃないんだけれど、だんだん恥ずかしくなって来ちゃったよ。
谷崎くんも照れてしまったのか、手のひらで頬をぐいっとこすり、ごまかすように話し始めた。
「空いてるなら、良かった。親父からチケットもらったのはいいが、この土曜が最終日なんだ。平日は時間がなくて無理だから、土曜が駄目ならアウトだった」
「そっかあ」
「ただ、会場が少し遠いんだ。電車で一時間かけて行くことになる。大丈夫そうか?」
そう聞かれて、しばらく考えてみる。そう言えば、電車で遠出したことって、あんまりない気がする。
家族で出かけるときはだいたい自家用車だし、学校は徒歩圏内だ。春の遠足は電車で移動したはずだけれど、切ないことに、体調が悪くて欠席しちゃったんだよね。こんなじゃ都会で生活できないかも。
だけど、今なら大丈夫な気がする。ここのところ貧血の症状もほとんどないし、バスケットだってできちゃうくらいだし。それに谷崎くんと一緒なら、電車での移動中だってきっと楽しいはずだ。
私は谷崎くんに向かって、大きくうなずいて見せた。
「うん、大丈夫だよ! 最近、体の調子すごくいいんだ」
「そうみたいだな。走ったあとでも、顔色がいい」
「あとね、この写真展、谷崎くんが前に好きだって言ってた写真家さんの個展だよね? 私も見たいなあ」
「……よく覚えてたな」
谷崎くんは目を丸くしている。私はえへんと胸を張って見せた。
図書室で写真集を一緒に見ていたときに、ちらっと聞いたんだよね。それはもう何ヶ月も前のことだけれど、谷崎くんが好きなものについて語るのって珍しいから、印象に残ってたんだ。
「なら、決まりだな。土曜日、駅に九時頃集合でいいか?」
「うん、了解です! えへへ、楽しみだなあ」
「ああ、そうだな」
谷崎くんも、今度は照れることなく同意してくれた。ますます顔がにやけてしまう。
うわあ、すごくわくわくしてきた。谷崎くんと二人で遠くに行くのって、初めての経験だ。二人で一緒に、どんな景色を見て、どんな話をするんだろう。そして、どんな気持ちが生まれるだろう。
騒ぐ鼓動をなだめつつ、私は谷崎くんからもらったチケットを、何度も何度も見返した。
「それにしても、最近よくバスケットしてるな」
谷崎くんは私の足下に転がっているボールを目を移し、ちらりと笑顔を見せた。
「昼休みも体育館裏で松原と練習してただろ」
「う、うん。谷崎くん、よく知ってるね」
確かに、ここのところ毎日リオに教えてもらってたもんね。ドリブルからパス、シュートまで、一通りのことを全部。
「うん、今ね、ものすごく体を動かしたい気分なんだ」
「体育祭に参加して、運動に目覚めたからか」
「そうかも! バスケットって今までまともにやったことなかったけど、うまくシュートできたらすごく嬉しいよ。それからね、他にも理由が……」
理由があるんだ、と言いたかったのだけれど、この先を続けることはできなくなってしまった。
「谷崎、ここにいやがったのかあ!」
突然、そんな大声が谷崎くんと私の間に飛び込んできたからだ。声とともに、学生服の黒い影が猛スピードで走り込んで来る。
「イベントの準備でみんな忙しいってのに、なに放ったらかして、こんなとこでサボってんだよ!」
その男子は谷崎くんの前で立ち止まると、両腕を振り回しながら、谷崎くんに訴えた。
多分、怒っているんだとは思うけれど、言い方と動きのせいか、まるでそういう風には見えない。何だか面白い人だなあ。
「ああ、悪い。あとでやるつもりだった」
すぐ横で派手に騒がれても、谷崎くんはまったく動じる様子がない。
それが面白くないのか、男子はさらに大暴れだ。地団太を踏みそうな勢いで、さらに文句と、威力のなさそうなパンチを谷崎くんの肩にぶつけている。
「何だよ、あとじゃなくて今やれよ! 部室に谷崎いないと寂しいじゃんかよ、俺がさあ!」
「勝手に寂しがってろ」
瞬時にすっぱりと切って捨てる谷崎くん。男子は大げさに肩を落とし、がくりとうつむいた。谷崎くんの突っ込み、容赦ないなあ。何だかかわいそう。
この人、さっき「部室」って言っていた。ということは、谷崎くんと同じ写真部の人なのかな?
そう言えば以前、彼を見かけたことがあるような気がする。体育祭で、写真部の腕章を付けて撮影していたような……
そんなことを考えていると、私に背中を向けて谷崎くんと話していた男子が、突然振り向いた。
それから私と谷崎くんを交互に見たあと、何かに気づいたように「あっ」と大きく口を開けた。
「あ、ごめーん! 俺、超おじゃまだった?」
彼はなぜか可愛らしく両手で顔をおおい、指のすき間から、ちらちらと私たちを見ている。これはもしかして、からかわれてるのかな。何だか恥ずかしい。
「ああ、話をしてたところに割り込まれて、ものすごく邪魔だ」
「ええー!」
谷崎くんはまたしてもばしりと言い切った。どんどん切れ味が増していくなあ。谷崎くん曰く「なぜか怒ってると勘違いされて、謝られてしまう」顔のせいで、効果は絶大だ。
私も谷崎くんと会ったばかりのころは、冷たい言葉で切られまくっていたから、彼に同情しちゃうなあ。
「そ、そんなことないよ。今、話が終わったとこだから」
私があわててフォローを入れると、男子はうつむいていた頭をぴょこんと上げ、瞳を輝かせた。
「おお、ありがとう! 彼女優しいなー! ねえねえ谷崎、彼女なんて言う名前? 俺にも紹介してよー」
「……何で俺に紹介を求めるんだ」
谷崎くんは複雑そうな顔をしている。
「や、だって彼女の紹介には、彼氏の許可が必要かと思って」
無邪気に答える男子に、私は顔が熱くなってしまう。彼氏って、彼女って……
そういう言葉で私たちの関係を意識したことがなかったからか、今さらながらに動揺してしまう。本当に今さら、なのかも。
もしかすると、谷崎くんも私と同じように思っていたのかもしれない。
小さな声で「彼女……」とつぶやき、考え込むような顔で、ちらりと私を見たからだ。
谷崎くんと目が合った瞬間、私はもっと恥ずかしくなってしまい、ぱっと視線をそらしてしまった。
谷崎くんも私と同じようなことをしていたらしく、私たちはしばらくお互いの様子を目の端でうかがいあう、おかしな二人になってしまった。
その間にも、男子は谷崎くんの腕にぶらさがりそうな勢いで紹介をせがんでいた。
谷崎くんは仕方がないなあ、という風にため息をついてみせると、私の名前を紹介した。続いて谷崎くんは私にも、男子の名前を教えてくれた。
「真純、こいつは写真部の加藤。でも、別に覚えなくてもいい」
「谷崎、ひどい! 原田さん、俺、加藤加藤、加藤くんです。めちゃめちゃ覚えてもいいから!」
「うん、しっかり覚えた」
必死に自分の名前を連呼する加藤くん、すごくおかしい。私は吹き出すのをこらえるのに苦労しながら、うなずいた。
「でも、そっかそっか、この子が原田さん」
加藤くんはさっきの騒がしい雰囲気から一転、ふっと静かになり、何か感慨深げな表情になった。
「いやあ、俺、前からお礼言いたかったんだよね。本当にありがとう」
加藤くんはそう言うと、私に頭を下げた。
「え? お礼って?」
どういうことだろう? 加藤くんとは初めて会ったんだから、お礼を言われるようなことをしてはいないと思うんだけれど……。谷崎くんも不思議そうな顔になって、加藤くんと私を交互に見ながら問いかけた。
「加藤、原田のこと知ってるのか」
「ううん、全然!」
朗らかに首を振って答える加藤くん。ますます話がよくわからない。谷崎くんと私は顔を見合わせて首を傾げた。
「全然ってお前……なんで今まで知らなかった人間に礼を言うんだ」
「へへ、内緒! でもとにかく、ありがとな」
谷崎くんの呆れた視線を受け流し、加藤くんは私に屈託のない笑顔を向けた。
「え、ううん。ど、どういたしまして」
一応返事をしたものの、全く身に覚えがない。人違いなんじゃないのかなあ。
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