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「月見日和のアパート」
「それではこちらが鍵でございます。ここから歩いてさほど係らないでしょうか」
そのように不動産屋から言われてから、半時間かけて歩いてたどり着いたアパートは、見るも無残だった。
桜は確かに綺麗な、アスファルトの舗装も疎らな道路。それなのに景色は、桜の散るばかりで一向に変わってくれようとしない。あとは遠くで鳥が鳴くだけ。
東京から飛行機と車を乗り継いでたどり着いた進学先は、山中にあるようなところだった。周りには楽しそうなものは何もない。バスの時刻表には空白が多すぎるし、駅前ですら人の往来は少ない。果ては『動物注意』の標識。
進学を決めた私は、他の新入生とは遅れて移ってきたので、下宿先を決めるのが遅かった。ようやく見つかったのが、キャンパスからも駅からも遥か彼方のアパートだった。唯一の長所は、ひどく安い家賃。
『ツキミソウ』という名の木造の古い二階建てのアパート。駅からも遠い。
私の渡されたキーホルダーには、209と書かれていた。
アパートに入り、ぎしぎしと軋む階段を上る。屋上へ上る階段には、鎖が一本架けられ立ち入れないようになっている。
209号室は廊下の一番端。
廊下の真ん中には、掲示板があり、何か紙が貼られている。
『入居者各位
今月の月見日和は、4月22日です。
場所は当荘の屋上でございます。
ぜひご参加くださいませ。
(雨天中止)
あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、
光り続けていますように。
大家より』
変な宗教の案内か、セミナーか何かのお誘いか、ねずみ講への勧誘か。私はそう直感的に思った。
月見日和という集会で、入居者に変なことを吹き込んだりするのだろうか。妙なことに、ゴミの分別や共同駐輪場の使い方など、それ以外の張り紙は掲示板にはなかった。
引越し屋がくる前に、間に合ってよかった。
部屋の中は、想像に難くない。典型的な四畳半。まだお手洗いと風呂がついてるだけマシか。
部屋の奥にあるカーテンには、紙が貼られていた。
『新たに入居された方へ
今月の月見日和は、4月22日です。
場所は当荘の屋上でございます。
ぜひご参加くださいませ。
(雨天中止)
あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、
光り続けていますように。
大家より』
私は、その紙をくしゃくしゃと丸めた。
数十分後して、引越し屋が屑かごも含む段ボールの山を持ってくるまでは、その丸められた紙は、所在なさげに部屋の中央に転がっていた。
* * * *
時計を見ると、もう夕方の5時になっていた。
何人かの友人にサークル見学に誘われたが、もう学校を帰らなくては、真っ暗で街灯もない場所を歩くことになるので断った。
キャンパスを一歩み出ると、先ほどまでの学生の喧騒はもう聞こえなくなり、どこかで、聞いたことのない虫の鳴き声。
街灯が無いということが、これほどとは。まだ夕刻だというのに、世界は緞帳を半分まで下ろしている。
(東京に、戻りたい。今すぐにでも)
何度、特急列車に乗って東京の住処まで帰ろうかと思っただろうか。
それでも、あの家にいて、家族と延々口論しているのも、嫌だ。
結局、こんなところまで逃げ込んできたのは、自分自身だった。
そんな自分自身にも、嫌気が差す。
灯りの薄い夜道を照らしてくれるのは、ちょうど半分に欠けた月だった。
枯れてしまった桜の花を踏みながら、私はあの張り紙を思い出した。
『今月の月見日和は、4月22日です。』
奇しくも、今日はその指定日だった。
やや歩き慣れた道を辿り、ようやく『ツキミソウ』の名前が見えた。
恐る恐る共同玄関をくぐった。郵便受けには何も入っていない。相変わらず他の部屋からは物音も聞こえない。
二階へ上がって廊下を見渡すと、誰もいない。もちろん私の部屋の前にも。
けれども、いつもは鎖が掛かっている屋上への階段が、今日は何もないことに気づいた。誰でも通れるようになっている。
時刻はまだ午後6時半、このまま帰るのも癪だ。
階段を登った。屋上へ続く扉には、やはり紙が貼られていた。
『あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、
光り続けていますように。』
どうも月見日和とやらはここでやっているみたいだ。
不思議と怖い気はしなかった。私は屋上への扉を開けた。
扉を開けた途端、風が強く吹き私は目を潜めた。
照明も無いのに、ひどく明るい。月が大きく照っている。先ほど帰り道でみたものよりも、数倍大きく感じられた。
その月のシルエットに映えるように、地面に落ちていた桜の花びらが舞い上がる。まるで映画のワンシーンのような色彩が、私の網膜に映り込んだ。
ドアを閉めて、屋上に出る。
「ようこそ、今月の月見日和へ」
誰かの声が、左側から聞こえる。
見ると、そこには女性が立っていた。髪は長く、真っ直ぐに下りている。質素な服を着ているのに、どこか品性を感じさせる佇まいだった。
「あの……ここ入ってもいいんですか?」
「もちろんです。今日は月見日和ですから」
「失礼ですが、どなたですか?」
髪をかきあげると、女性の顔立ちは女優かと見紛うばかりの美しさ、それでいて化粧っ気が無い。女性は切れ長の目を細めて笑いながら、
「私はここの大家にございます」
大家だという、ここに越してきてから、住人とは誰一人あっていないけれど。
「どんなことが始まるんです?」
「月見日和と言いましてね、月の美しい日にはここの住民と一緒に月を見る会を開いております」
「月を、見るだけ」
「ええ、そうですが」
女性はやや不思議そうな顔をした後、月をじっと眺めた。
まるで落ちてきそうな月は、やはり先ほどと同じように半分欠けていた。確かに、こんなに美しい月を見たことは無かったかもしれない。ビルか電線の隙間から除いているものを、雲越しにしか見たことしかなかった。ましてやこんな大きい月は、教科書でしか見たことがない。
「お嬢さん、こちら、お邪魔しても良いかね」
今度は私の左側から声がした。
見れば、椅子を抱えた老人がパイプを咥えて立っていた。
「え、ええ。どうぞ」
「どうもありがとう」
老人は椅子を置き、その上に座った。ベレー帽を被り、まるで昔の漫画家のようだった。
「こちらの住人の方ですか?」
「ああ、そうだよ。いつもそちらの大家さんに良くしてもらっている」
「あら、本日は気分が優れていらっしゃるようで」
大家は、老人のほうに向く。
「うむ、おかげさまでね。さあ今日は上弦だ。ゆっくりと楽しもう」
全員で、月の方へ向き直る。
初めてみる巨大な月は、図鑑で眺めたものよりも、どこかカラフルな印象を覚えた。影に近い部分は、どこか青く濁っているけれど、一番照っている表面は黄色く光っている。クレーターの一つ一つも、まるで違う色に見えた。
時々吹く風は、月を揺らしているようだった。もちろん動くはずもないのに、風が吹くたび、月が震えて回り出すような錯覚をおぼえた。
時計が回り、だんだんと肌寒くなってきた。
月は相変わらず煌々と照っている。
「あの……」
私は大家の女性に話しかけた。
「どうされました?」
「そろそろ、部屋に戻ってもいいですか、ちょっと寒くなってきて……」
「ええ、もちろんです。いらしたいときに来られてください」
良かった。強制的に見せられるものではなかったようだ。
「じゃあ、これで失礼します」
「ええ、お身体にお気をつけて」
女性はニコリと笑い、老人も手を振ってくれた。
私は通学鞄を抱えて屋上を後にした。
「ああ、それと」
女性が声をかける。
「この月見日和は毎月やっていますから、どうぞお気軽にいらしてください」
「わかりました」
「あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、光り続けていますように」
あの言葉だった。まるで羽毛で包み込むような柔らかく優しい声で言うのだ。
私は、なぜか顔を赤らめながら小さく会釈をすると、屋上へのドアを閉め、小走りで自分の部屋まで戻った。
結局、赤らんだ私の頬は、風呂を入ってから1時間経っても元に戻らなかった。
* * * *
『入居者各位
今月の月見日和は、5月19日です。
場所は当荘の屋上でございます。
ぜひご参加くださいませ。
(雨天中止)
あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、
光り続けていますように。
大家より』
掲示板には、次の案内が出されていた。
私はスケジュール帳の5月19日に赤い丸をつけた。
あれから、屋上へ続く廊下は相変わらず鎖で閉ざされていた。私は次の月見日和がいつになるか、とても楽しみだった。毎日掲示板を見ては、案内がないかどうか、調べていた。
あの日以来、私は大家の女性に会っていない。この建物のどこかに住んでいるだろうけど、学校の行き帰りにも会わない。部屋を訪ねようにもどこだか分からない。
けれども、あの月見日和になれば、大家に会える。
それに、あの月は、あの屋上でなければ見られない気がした。帰り道に空を眺めても、晴れた夜に部屋の窓から見ても、あるいは天文図鑑やインターネットにも、あの日以上の月は無かった。
19日の当日、私は大学が終わると、小走りになりながら正門を出た。
夕焼け空の向こう側には、半分からやや膨らんだ月が浮かんでいた。今日はあれを見ることになりそうだ。
部屋に着くと、午後6時だった。まだ空は明るい。もう少し待ってみてもいいだろうか。いや、先ほどみると、もう屋上への階段は入れるようになっていた。
すでに大家が準備しているのかも。
私は部屋に鞄を放り投げると、階段を上がり、屋上への扉を開く。
「あれ!?」
思わず私は叫んだ。
そこにあったのは、もうすでに真っ暗な背景と、欠けた部分のない望月だった。
「ようこそ、今月の月見日和へ」
見ると、そこにはすでに月を眺めていた大家が立っていた。
「あの……」
「すでに始まっております故、どうぞこちらに」
屋上を見渡すと、何人かがすでに月を見ていた。以前の老人もいれば、品の良さそうな婦人もいる。奥の方にはスーツを着た男性も立っている。
「まだ、6時なのに、どうして?」
「6時ですか?もうすでに午後の8時ですが」
大家はポケットから何かを取り出した。真鍮製の懐中時計だった。短針と長針は、8時3分を示している。
「あれ、どうして……?」
急いでポケットの中の携帯電話を取り出した。
『20:03』
「どうして、さっきまで確かに6時だったのに……」
「まあまあ、難しいことは気になさんな。それより御仁、面妖なものを持っていますな」
月を見ていた人の中で、初老の男性が声をかけていた。頭には白いものが混じり、半纏を着ている。片手には、一升瓶を抱えている。
「けいたいでんわ、という奴ですか。最近のものは凄すぎて全くわかりゃあしませんなあ」
そういうと、どこからか盃を取り出し、一升瓶の中の液体を注ぐ。
「あまり飲んではいけませんよ。お医者様にも止められていらっしゃるのに」
「なあに大家さん、適量というやつですよ。適量」
どうも酒飲みらしい。私は、酒を飲んですぐに怒り出して暴れる父親を思い出してしまった。
「お嬢さん、お酒は好きかい?」
「いえ……まだ未成年だし、それに……」
「お嫌いかい。それも結構」
そういうと男性は、月に向き直した。
「こんなにいい月は、酒を飲まずとも楽しめる。それで結構じゃないか。失礼したね、御仁」
ニコニコと笑いながら、離れて行った。
「ごめんなさいね。あの人お酒がお好きだから……」
大家が笑いながら謝る。切れ長の目を細めながら。
大人びた顔立ちだが、笑うと、どこか子供のような感じも受けた。
「いえ、気にしていませんから」
私は、大家の隣に立った。
「今日は、満月なんですね」
何だか、今日は満月なはずないのにというのは、野暮な気がした。
満月は、黄色というより赤く光っていた。全てのクレーターが見えたような気がした。風が吹いても、今日は一切揺れそうに無かった。
月が落ちてくるというよりは、まるで月の近くまで浮かんできたような錯覚をおぼえた。そして、その月の地表に吸い込まれそうだった。誰かが、あの月の表面に立っていて、私を呼んでいる、そんな気がした。
何時間くらい立っていただろうか。
気づけば、周りを見渡すと、私と大家しか立っていなかった。月は一向にその姿を変えない。
「ねえ、大家さん」
「どうされましたか?」
「どうして月見日和は、毎日じゃないんですか?」
「月の見え方には周期がありますから、私が思う美しいと思う時を月見日和としているのです」
「そうなんだ……」
「どうしたのですか?」
「いや、毎日できたらいいのになって思ったんで」
「もちろん、月の満ち欠けに貴賎はありません。縫い針のように鋭く尖っていても、あるいは瓶底のように丸くても、優劣はありません。しかしながら、私は皆様に、一番美しい状態を見て欲しいのです。だから、月に一度ですが、お誘いしております」
「そっか」
「月が毎日見られないのは残念ですか?」
「いや……こうして大家さんと、毎日会えたらなって」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのだろう。
分からないが、とにかく口をついた。
私は自分自身に驚いて、目を丸くした。
大家も、同じく月のような丸い目をしていた。
「ごっ……ごめんなさい!変なこと言って……!」
大家は、また子供のように笑った。
私はというと、耳まで赤らめ、目を伏せていた。
「そっ……それじゃあ……これで……」
ぎこちなく歩きながら、屋上を後にした。
「あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、光り続けていますように」
大家の言葉を聞く前に、私は駆け出した。
赤らんだ顔は、今度は次の日の朝になっても元どおりにならなかった。
* * * *
その後も、月に一度の月見日和に、必ず参加していた。
9月は、餅をたくさん持っていったにも関わらず、参加者は大家と私しかいなくて、満月でもなかった。それでも楽しかった。
基本的には何も喋らず、吸い込まれそうなくらいの大きな月を見ていたが、時たま、会話をしていた。どこから来たのか、どうして月が好きなのか、とか。他愛もない会話をしていれば、長針と短針が一番てっぺんで重なってしまう、そんな日を過ごしていた。
ただ、気になることがあった。
月見日和でない日は、必ず階段に鎖が架けられているのだが、鎖が二重になっている日があった。月見日和と同じく、一ヶ月に一度あった。
沿道に散る枯葉の量も多くなり、はためく虫の数も減った。
私は毎日のように、アパートの掲示板を見ていた。月見日和の案内は大体、月の初めくらいに出る。
……しかし、一向に連絡がない。掲示板には画鋲を刺した跡しかない。大家は相変わらずどこにいるか分からない。
もうすでに月の半分が過ぎたと言うのに、月見日和の案内は一切ないままだった。
穏やかに雨が降った、もう10月の後半。
いつものように大学から帰ると、掲示板に目をやった。そこには今日も張り紙はなかった。
二階へ上がると、屋上への階段に、鎖が二重になって架けられていた。
(まただ……)
その日は、絶対に入ってはいけない気がしていたが、それと同時に、ずっと、あの大家がいるような感じがしてならなかった。
雨音がする。
私は、その二重の鎖をくぐった。忍び足で階段を上がる。
屋上への扉には、張り紙が貼ってある。
『あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、光り続けていますように』
『けれども私の心は、誰かに光を貰わなければ照ることもできない』
扉を開く。
「わっ!」
顔全身に冷たい感触を受けた。大粒の雨がひっくり返っていた。
口の中に雨水が入ってきた。
目も開けることが難しいほどの雨ざらしのなか、空を見上げると、光などない。
それでも微かに見える、遠くの方、空を見上げる人は、随分と長い髪をすっかり濡らしきっていた。
「大家さん!」
その声で、大家は振り向いた。私は駆け寄った。水しぶきが辺りに立ち込める。
目には光を宿さない。いつもの美しい顔立ちは、冷たい印象を与えるだけだった。
「あなた……」
「どうしたんですか!こんな土砂降りの日に!」
「あなたこそ、どうして入って来たのです」
「えっ……どうしてって」
何か咎められた気がして、思わず口を噤んだ。
「今日は月の出ない、新月の日です。そんな日は、私は鎖を増やしてまで閉ざしているのです」
新月の日は、ちょうど太陽からの光を貰えない、月が一片も光らない日。
大家は、虚ろな雨空に向き直った。
「ここで見てきた月は、すべて私の心なのです。それが一番大きく綺麗に光る時は、あなた方にお見せしておりました。けれども、今日は何も見せられるものがない。だって、私は月です、誰かに照らされないと、光ることすらできませんから」
大家はそういうと、私に向き直った。
「ごめんなさいね、月見日和の案内を出さずに。でも……しばらくはもう光れないかもしれない」
「私が太陽になったっていい。大家さんに何があったかは知りませんが……私がそばにいます……」
「あなたは、優しいのですね」
大家は、優しく私を抱きしめた。冷たい水の感触のその奥に、確かな体温がある。
少しだけれど、雨が弱まった気がした。
「あなたのような人に出会いたかったと、今初めて思うことができました。ありがとう、私の心を照らしてくれて」
「大家さん……」
「毎月、ここに来てくれて、私と会話をしてくれたあなたは、もう十分私の太陽です。月の照ることが無い日も、あなたはずっといてくれるのでしょう」
涙はすでに雨で洗われていたようだ。
そっと私の耳元で、囁くように、それでも雨音よりも強く、
「あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、光り続けていますように」
「そして、太陽のように、誰かの心を光らせる存在でありますように」
瞬きをした。
雨が止んだ。
遠くの方で、虫が鳴いている。
突然のことで分からなかった。
辺りには、何も無い。
雨など降っていなかったように、地面は乾いている。
「あれ……?」
誰もいなくなった。
あとはもう暗闇が広がるばかりだった。
* * * *
「そのアパートはお嬢さん以外誰も住んでいませんよ。管理人はあそこにはいません」
不動産屋に電話すると、そんな答えが返ってきた。
なるほど、破格の家賃の裏側には、立地の悪さだけではないということだった。
ちなみに、不動産屋にアパートの過去のことを話しても、一切取り合ってくれなかった、明らかに何か知っていそうな素ぶりをしていたのが面白かった。
けれども、もうこれ以降、このアパートで私以外の人を見ることは絶対にないだろう。そんな確信もあった。
「そうそう、そちらのアパートに、来年から何人か入居者様が入りますので、よろしくお願い致します」
もうひどく寒い季節になってきた。それでも空気だけは澄んでいる。
月は相変わらず、舗装されない帰り道の夜空に浮かんでいた。今日は消え細りそうな三日月だった。
あの月は、誰かから光を得て照っている。あの大家の顔を思い出した。
私はコートをぐっと着込み、家路を急いだ。
もうあの大家はいない。
あの人の正体は分からなくてもいいが、ずっと覚えていたい。
私は、カバンから紙を取り出し、もう何年も前から使われていなかったような掲示板に、ピンをとって貼り付けた。
『入居者各位
今月の月見日和は、12月14日です。
場所は当荘の屋上でございます。
ぜひご参加くださいませ。
(雨天中止)
あなたの心が、まるで月のように、尖って痩せゆく時も円に満ち溢れる時も、
光り続けていますように。
一住人より』
月見日和は、とりあえず満月と予想される日とした。
あの人を、欠けることなくずっと覚えているように。
(了)
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