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契約
二階の自室にこもり、下から漏れ聞こえてくる宴会の喧噪を閉め出すようにイヤホンをつけた。数学の宿題を鞄から出しながら、放課後のことを思い出す。クラスメイトの女子に話しかけられ、些細な質問をされた。
「ねえ羽山くん、ラプラスの悪魔って知ってる?」
知らない。
そう答えると、彼女は邪魔してごめんと言って慌てて去って行った。会話はそれだけだった。鮮明に思い出されるのは、俺の机に乗せられていた彼女の柔らかそうな手と、去り際に長い黒髪からふわりと香った、甘いシャンプーの匂い。
「君は飲まないの?」
思わずびくっ、と背筋が震えた。
イヤホンを外し、回転椅子を回して振り返ると、開いたドアに背をもたれかけるようにして、さっきの新顔の男がつまらなそうにこちらを見ていた。手にはやはり缶ビールがあり、長い睫毛を伏せながら彼はそれに口をつける。
「鍵」
「ん?」
「俺、部屋に鍵、かけてたんですけど」
きつく睨みつける俺の目線もまったく意に介すことなく、彼は笑みをたたえたまま、ふーっ、と気怠そうに息を吐いた。
「悪魔相手に、鍵が意味あるとでも?」
「悪魔?」
「そう。ボクは悪魔。今日は契約を持ちかけに来たんだ」
俺は椅子から立ち上がり、男の前に立った。
「ずいぶん酔ってるんですね。出て行って下さい。下の階では何をしたって構いませんが、上にはもう来ないで下さい」
「酔ってるもんか」
「酔っぱらいはみんなそう言います」
俺が言うと、男は頭を掻く。
「じゃあ君は、今日の宴会のお金、一体どこから出てると思ってんの?」
「さあ。パチスロで当てたとか、借りたとか、そんなとこでしょ。知りたくもないし」
「ボクだよ」
「え?」
「ボクが出してる。今日のお金は全部」
パチン、と男が指を鳴らすと、彼の細く長い指の間に、一万円札が突如として現れる。
「ほらね?」
「……ただの手品でしょ。しょうもない」
「じゃ、これでどうだ」
言うと男は、笑みを深め、着ていた薄手のTシャツを胸元までまくり上げた。肌色の腹部が露わになり、思わず後ずさった。
「わ、」
慌てて目を逸らしたが、目線を移した床の上に、はらり、と何かが舞い落ちてくる。新品の一万円札だった。そしてそれはあたかも満開の花の花片が散るかのように、はらりはらりと次々に床に落ちる。
「え……」
恐る恐る、目を上げる。
彼のたくしあげた服の内側から、絶え間なく、真新しい紙幣が溢れ出ていた。まるで服の裏か身体の中に、印刷機でも仕込んであるかのようだ。しかしそんなこと有り得るはずがないことは、現実主義者の自分が一番よくわかっている。戸惑う俺に、自慢げな笑みの男が言った。
「ね? ボク、悪魔なの」
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