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「清孝」
聞き間違えるはずもない。それは長いこと聞きたくてたまらなかった、懐かしい母の声だった。
「かあ、さん……」
俺はすぐさま母の足元に跪き、言った。ずっと言いたくてたまらなかった言葉だった。
「俺の魂があれば、母さんは生き返れる。俺やあのクソ親父なんかより、母さんが生きるべきだったんだ。俺は生きることに向いてない。俺が死ぬべきなんだ」
しかし、母は黙って首を振るばかりだった。
「なんでだよ。あんたが死んで、俺がどれだけ辛かったと思ってるんだ。あんたが代わりに生きてくれ。それで死ぬなら、俺は、本望だよ」
「駄目よ」
「だから、なんで……?」
その時、肩に母の手が触れた。
「貴方は、まだこの世界に必要なの。貴方を待ってる人が、絶対にどこかにいる。私は私の役目を終えた。だから、もう、戻らない」
それを聞いた途端、体から急に力が抜けた。生暖かい涙がひとりでに頬を伝った。
「なんで……役目なら、まだ沢山残ってるじゃないか。俺のことは……子供のことは、どうでもいいの」
「ごめんなさい。本当はもっと、貴方と暮らしたかった。貴方の成長を近くで見て、辛いときは支えてあげて、幸せなときは一緒に笑っていたかった。そばにいてあげられなくて、本当にごめんね」
俺は俯いた。嗚咽と涙が止まらなかった。やがて涙も出尽くした頃、ふと思いついて、質問をした。
「……じゃあ、俺が悪魔と契約をすると言ったら、どう思う?」
母は小さくため息をついたが、ふふ、と困ったように笑った。
「本当は、貴方には一生悪魔にかかわってほしくはなかったのだけど、これも、血なのかしら」
「え……?」
「私は子供の頃、難病で死の淵に立たされたことがあるのよ。入院して治療を受けていたけど、ほとんど瀕死に近かった。そんな時だった。悪魔がやってきて、私に契約を持ちかけた」
母はかがみ、困惑する俺に向かって、自らの腕の裏を見せた。いつも痣だと言っていたが、今見るとそこには、青い小さな魔方陣のような印が浮かび上がっていた。
「いくら死ぬほどの苦しみに侵されていたとしても、悪魔と契約を交わすなんて、褒められたことではないとわかっていたわ。でもその時の私は、このまま死ぬよりはましだと思ってしまった。死ぬのが怖かった。何も遺さないまま死んでいくのが何より嫌だったの」
「じゃあ、まさかあの事故は、悪魔が……?」
「いえ、それは違うわ。悪魔は契約した人間を殺すことはできないの。あれは本当にただの不幸な事故よ。でも私はね、清孝」
母は俺を抱き締めた。
「私は、生きて良かったと思ってる。悪魔に魂を売り渡したとしても、諦めずに生きたことで、貴方に会えたんだから。だからね、もしも貴方が悪魔に魂を売りたいというのなら、私は止めない。でも、これだけは覚えていて。魂は奪われても、心だけは、決して誰にも売り渡してはいけないって」
母は体を離し、やがて、消えた。
「どう? 契約、してくれるよね?」
空気を読まずに聞いてくる悪魔に、俺は涙を服の袖で拭い、立ち上がって尋ねた。
「母さんみたいに悪魔に魂を奪われた人間は、死んだら、どうなるんだ? お前達に痛めつけられたり、苦しませられたりするのか?」
「うーん、それは悪魔によるよ。仲が良くないと傷付けられたりするらしいけど。でも君のお母さんの場合、契約印が青に変わっていたから、たぶん大丈夫だと思う。肉体に刻まれてるときはみんな赤なんだけど、魂だけになったときには色が変わる。青なら魂が普段から健康な証拠、黒とか紫だと、毎日いたぶられてる不健康なかわいそうな魂ってわけ。で、契約する?」
俺はそれを聞いて、頷いた。
「もちろん。まるで親切の押し売りだな」
彼はハハハ、と明るく笑う。
「押し売りなのは否定しないけど、何、ボクが親切? 変なの。悪魔を親切だなんて言うのはよほどの大人物か、言葉の使い方のわからない馬鹿しかいないよ。君はどっちかな」
次の瞬間手に熱さを感じ、見てみると右手首の内側に、赤く光る不思議な記号が焼き印を押されたように焼き付いていた。「契約印だよ」と悪魔は言い、得意気に人差し指を立てた。
「とにかく、ボクと契約したからには、もうお金の心配はしなくていい! ボクは『財欲の悪魔』でね。お金なんて文字通り、湯水のように湧くから。好きなだけ使って」
その時、1階から大きな物音と悲鳴が聞こえた。
「キャー!」
「き、救急車を呼べ!」
「清孝、降りてこい!」
ドタドタ駆け回り、叫ぶ声がする。そんな中、悪魔は唇を指先でいじりながら呑気に言う。
「あー君のお父さん、とりあえず地獄でボクのペットたちと一緒に飼い殺しにでもしておくけど、いーい?」
ギャーギャー騒ぐ1階の奴らになんどもしつこく呼ばれて、部屋のドアを開けながら、渋々俺は答えた。
「好きにしてくれ」
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