6-120『Kurenai』

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「じゃあ、歌うね……………」 本当にこれで最後なんだ、丈君が呟く様に宣言をしてマイクを握ると、大河は恐怖にも似た戦慄にも等しい寂しさを覚え、カウンターの下に忍ばせる様に寄せ書きを握り込んだ指先の震えも著しくさせていた そして間もなく伴奏が始まる、すると曲目が曲目なだけに奈々は瞬間的に反応をした 「ねぇそれは卑怯だよ!泣かせに来てる!」 ぼんやりと、ただ話の流れからしてなんとなく別れの曲の様な気は奈々もしていた、しかし今夜のカラオケが、ここまで騒がしいくらいに盛り上がっていただけに、突如として強烈なまでに別れを際立たせられると、頭の中で知ってはいたがまだまだ心の準備は不十分だった奈々は、もうすぐそこまでお別れの時が近付いていると言う真実に打ちのめされると同時に、今一度心に溢れたこの1年間で関わってくれた全ての者に対する感謝で、堪らず心が震えていた 「hideはhideでもそれはズルい!ブラザーお前どれだけ私の泣いた顔が好きなんだよ!」 粋な計らいが過ぎる、嬉しくなって奈々は名指しで怒鳴った 「けっ!さあなっ!!!」 しかし緊張と寂しさでガッチガチの大河には、不意に話し掛けられるのが一番辛い事で、本当だったらにこやかに優しい返事をしたかった所を、こちらもさながらの怒鳴り口調で返してしまう、こんなにも感動的な場面においても素直な「ありがとう」の気持ちを顔に出来ない哀しき姉弟は、今だけは誰の目にもまるで本物の姉弟で、その事が無性に涙を誘う、するとそんな姉弟の微笑ましいやり取りを横目に気付いてか、真央はスッと立ち上がり大きな声で奈々の名前を呼んだ 「奈々!ちょっとこっちへ!」 姉弟に緊張が走る、これぞ卒業式のクライマックス、言わば卒業証書の様なプレゼントを奈々が手にするその瞬間、片付け等は残っているとは言えこれにて奈々はスナック紅の奈々ではなくなるのだ、呼び出された奈々は恐る恐るゆっくりとした足取りでカウンターの向こう側から移動して来る、そして嬉しさと寂しさと感謝に震える奈々の気持ちは、同じくドキドキが止まらない大河にも一目瞭然だった そんな大河も横目で見守る中で、遂に真央は本格的に奈々を泣かしに掛かった 「奈々!1年と少し、今日まで本当に本当にお疲れ様でした!まあ言うて奈々の事だから私もぶっちゃけ心配はしていなかったけどさ、でもこれだけ多くの人にたくさん愛されていたんだって目に物を見せられると、私もなんだか嬉しい様な誇らしい様な、でもやっぱりまだまだここで奈々と一緒に楽しく飲んでいたい気持ちもあって、なんつーか上手く言えないんだけど、とにかくこれ以上喋ってたらいつか私も泣くんでハイこれ!こんなバカな奴でも一応奈々も女の子だから花束だよ!本当にお疲れ様でした!!!」 「一応は余計だよこの野郎!!!」 そんな噛み付く様な言葉達こそ奈々にとっては「ありがとう」だった、まるでプロポーズを受けた直後のホヤホヤのフィアンセの様に花束を抱く乙女は、照れ隠しだけで精一杯だったのだ 「じゃあシスター、次はこっちを向いて」 【Good Bye】を歌う丈君の優しい声が弱く震えていた、そんな侘しい歌声に感化されたのか、大河が頻りにキョロキョロと店内を見渡すと、長らく奈々の妹分として最も親身になっていた優奈はとうに泣き崩れていて、その肩を美保が涙目で支えていた そんな姿をカウンターを隔てただけの至近距離で見せ付けられたら、同時に必死になって緊張と寂しさと戦っている大河には本当に辛い事だった、笑いが笑いを誘う様に涙が涙を誘うのがコミュニケーションのメカニズム、特にお酒の席ともなるとその効果は著しかったのだ、これでは一度穏やかになった筈の涙の川が再び冠水するのも時間の問題で、大河は真央のプレゼントの贈呈とその後の抱擁が終わるなり、間髪入れずに奈々に声を掛けた 「ねぇブラザーもぉ!?」 奈々はもうとっくに限界だった、真央に続いて大河にまでサプライズを仕掛けられたら堪らない、ここで過ごした1年ちょっと、とても他人に誇れる様な日々でなかっただけに露骨な感謝は奈々を困惑させた、特に向かい合った大河と言えばやっぱり一番に迷惑を掛けてしまった相手で、それなのにハグだけに止まらず今度はプレゼントまでされてしまうなんて、今度こそ奈々は申し訳なくてもはや顔を合わせる事すら辛い事だった 「ブラザー待って!!!!!」 自分にはもうそれ以上優しくしてもらう価値なんてない、奈々は何かを隠さんと両手を背中の方に回している大河に声を張り上げた 「まあまあシスター、早くしないと曲が終わっちゃうから静かに俺の目を見てよ」 ここまで来ると一体全体もう何が何やら、目前の別れに奈々が取り乱す気持ちも大河には解る、でもこの役目の完遂はC.E.Oを含めたスナック紅関係者のみんなの願い、それに出来る事ならせっかく丈君が歌ってくれている事だし、その愛に溢れた歌唱が終わる前に奈々にプレゼントを贈りたい、しかしどうしても素直に受け取れない奈々の気持ちも、どうしても受け取って欲しい大河の気持ちも本当で、この土壇場にも関わらず姉弟の気持ちは一つになれなかった 「奈々ちん!素直になれよぉぉぉ!!!」 「優奈ん!?」 するとどうにも締まりの悪い姉弟のそんなやり取りが、優奈を余計に寂しい気持ちにさせてしまったのか、美保の手を離れたと思ったら幼い子供の様に泣きじゃくりながら、同じく涙腺崩壊寸前だった奈々に飛び掛かって来た 「奈々ちん!奈々ちんの弟分はそんなに小さな男じゃねぇよ!この期に及んで迷惑を迷惑だと口にする様な男じゃない、それに最後くらいはやっぱり素直な笑顔が可愛い奈々ちんと、最高に笑ってバイバイしたいのが願いなんだよ!もちろんそれは私だけの願いじゃなくて、今ここに居る全員の願いなんだよ!だから格好を付けて受け取らないなんて、そんな奈々ちんらしくない真似は認めない!」 「優奈ん……………」 今日まで何度も助け助けられて来た優奈にここまで熱く言われるなんて、奈々は呆然としてしまい何も言う事が出来なかった 「奈々ちん!大河をちゃんと見て!!!」 「どうしてこんな私の為に……………」 奈々は愛情が痛くて堪らなかった…………… 良い先輩じゃなかった…………… 良い姉貴分じゃなかった…………… そればかりか私はいつでもワガママばかり、問題ばっかりいつも持ち込んでは二人の事は振り回してしまっていたね、だから贅沢な事かも知れないけど優しくしてもらえてとっても嬉しいよ、でも優しくしてもらうだけ心が痛い、だって本来私なんかは愛されるべきではない女なんだから、来る日も来る日も最低最悪な嘘で全てを覆い隠して、そして泣かしてはいけない人をたくさん泣かして、だから本当に感謝をしないとダメなのは私の方なんだよ、それなのにどうしてみんな…………… こんなにもの至れり尽くせりを受けては、奈々に出来る事なんて日頃の自分の愚かさを責める事くらいだった、自分なんかとても感謝に値しない愚かな人間なのに、言うなれば女性版オオカミ少年の様な哀れな生き物なのに、どうしてこんなにも感謝をされるのか最後の最後まで不思議でならなかった でも可愛い可愛い優奈にここまでハッキリとした物言いで言われても何も出来ないなんて、それこそ最低最悪の上塗りだった だったらきちんとプレゼントを受け取る事が、自分に最後に出来る贖罪なのかも知れない、奈々は泣く事もワガママを言う事も止めて、今度こそ大河と向き合うのだった…………… 【Good Bye】は厳かなギターソロを終えて、最後の大サビに差し掛かっていた……………
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