道しるべ

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 吉蔵は相模の国に住む大の山登り好き。  年は30で男盛り、体力には自信を持っている。  或る休日も吉蔵は青嵐を心地よく感じながら箱根火山群の岨道を愉快に歩き、乙女峠を越えて中央火口丘と芦ノ湖を遠望できる所までやって来た。  登山者にしか味わえない風光明媚な景色に励まされながら吉蔵は猶も愉快に歩いて行くと、分かれ道に突き当たった。  分かれ目には道標が立ててあって矢印が右の道を指している。  吉蔵は少し迷ったが、道標に従って進むことにした。  ずんずん進むに連れて霧が深くなって来たので、こりゃいかんと吉蔵は思って戻ることにした。  しかし、幾ら戻って行っても霧が晴れて来ないので、こりゃあどういうことだと吉蔵は不審に思いながら進んでゆく内に道に迷ってしまった。  糅てて加えて日が暮れて夜霧となってしまったので吉蔵はにっちもさっちも行かなくなって途方に暮れていると、「おい!」と闇の中から甲走った声で呼ぶ者がいる。  吉蔵は何処だ何処だと右往左往していると、突然、叢からぼんやりとした光と人影が現れて弓張提灯で照らし出された少年の顔が目の前に急接近したものだから肝を潰して、ぎゃ!と思わず叫んだ。 「お、お、お前は誰だ!」 「俺は金太郎だ!」 「き、きんたろう!」 「そうだ、本名を坂田公時というが、まあ、そんなことはどうでもよくて、おじちゃんが知りたいのはここが何処かということだろ」 「あ、ああ、そうだ」 「おじちゃんって闇雲に歩いて来たんだろ」 「まあ、そうだ」 「だから知らぬ間に遠くまで歩いて来て随分と山奥まで来ちまったのさ。だって、ここは足柄山だもんね」 「あっ、そ、そんな所に来てしまったのか・・・」 「うん、もう、遅いし、こんな暗くて靄ってたら道が分かんないから俺んちに来るかい?」 「えっ、こんな所に家があるのか?」 「ああ、あるよ、だから来るかい?」 「う~ん、まあ、明けて来なきゃ帰れそうもないしなあ・・・」 「そうだよ、だから来るかい?」 「う~ん、まあ、行くしかないか・・・」 「そうしなよ。気味悪がらなくても鬼胎を持たなくてもいいから。だって俺んちは何の変哲もないし、ずっと前にお父ちゃんが死んでお母ちゃんしかいないんだからさあ、一晩泊っていきなよ!」 「おう、そうか、二人暮らしなのか」 「うん、それでさあ、お母ちゃん、とっても美人だぜ!」 「えっ、へへへ、こんな山奥に美人がいるものか」 「それがいるんだよ」 「大人をからかう気か」 「違うよ。ほんとにいるんだから」 「ふ~ん」と吉蔵が思案気に顎を摩ると、金太郎は訊いた。 「ところで、おじちゃん、独りもん?」 「ああ・・・」 「それじゃあ、好機到来だね!」 「えっ、へへへ、また、そんなこと言いやがって」 「だって、そうじゃんか。だから俺んちに来なよ」 「う~ん」と吉蔵は金太郎の顔をまじまじと見ながら美人の母を想像し、「よし、そんなに言うなら」と行く気になり、「一つ見せてもらうかな」 「へへへ、そう来なくっちゃ」  という訳で吉蔵は植生の少ない風衝地にぽつんと立つ茅葺きの陋屋へ金太郎に案内された。  金太郎が引き戸を叩いて、お母ちゃん!俺だよ!と大きな声で言うと、つっかえ棒を外す音がしてから引き戸が開いて、年増とは言え、それはそれは見目麗しい瓜実顔を綻ばした柳腰の女が姿を現した。  吉蔵は金太郎の言っていたことが出任せではなく本当だったことを知り、女の虜になりながら、この出会いを無意味なものにしたくないとさえ思った。それを横目に金太郎が元気よく挨拶した。 「只今、お母ちゃん!」 「お帰り」 「今日はお客さんを連れて来たよ」 「えっ、お客さん?」  女はそう言うと、今、気づいたように金太郎の後ろに控える吉蔵をちらっと見るなり言った。 「ああ、道に迷われたんだね」 「うん、そうなんだ」と金太郎が答えると、女は吉蔵に愛想よく笑いかけながら言った。 「さあ、どうぞ、お入りください、むさくるしい所ですけれど」 「はあ、では、お言葉に甘えて・・・」  吉蔵は女に見惚れながら家の中に入った。  見ると、もう夕飯の用意が出来ていて湯気が立ち昇る囲炉裏鍋から食欲をそそる好い匂いが漂っていた。  結局、吉蔵は女に鍋料理でもてなされ、酌までしてもらい、その美しさに誘われるが儘、酒が進んで行って到頭、夢心地の内に酔いつぶれて寝込んでしまった。  すると、女は見る見る口角と目尻が吊り上がりながら裂けてゆき、歯が尖って牙になってゆき、鼻の穴が楕円形に膨らんでゆき、鬼気迫る化け物の形相に変化すると同時に体がでっぷりと大きくなってしまった。  早い話が吉蔵が密かにあわよくばと狙っていた女は、赤い竜と通じて金太郎を生んだ山姥だったのだ。  金太郎が嬉々として見守る中、山姥は大きな口を大量の血で赤く染めながら吉蔵をガリガリゴリゴリと骨ごと食って行き、食い尽くした時には丸々とした布袋腹になった。  吉蔵は金太郎との出会いが命取りになったのだ。  この出会いを生んだのは、あの分かれ道に道標を立てた死神だった。で、死神は吉蔵の魂をまんまと掻っ攫ったのだった。
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