冠着山

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 芭蕉が来遊した頃じゃから元禄時代になる直前、信濃の国は更科の里に小太郎という男が老母と共に住んでおった。  小太郎は百姓として棚田で働いておったが、老母の病気の所為で治療代が嵩む一方で、おまけに看病が大変で生活は苦しくなるばかりじゃった。  或る日、小太郎は気晴らしの積もりで出かけたものの老母のことで心を砕きながら冠着山の登山道を歩いておると、向こうから浮浪者らしき老いた男が杖を突いて歩いて来た。  二人が近づくにつれ、何やら妖しい雲が虚空に垂れこめて来て辺りが薄暗くなり不気味な雰囲気に包まれた時、擦れ違いざま老人が呼び掛けた。 「おい、何を悩んでおる。」  思わず小太郎は立ち止まると、自ずと老人と正対して、「おめえに言ったところで何になるんだ!」とがなった。 「わしを誰じゃと心得ておる。」と老人は落ち着き払って言った。「わしゃ人呼んで月夜見尊、即ち神じゃぞ!」 「か、神?たわけたことを抜かしよって何をほざくか!この気違いの乞食め!」 「気違い?それも乞食じゃと?乞食がこんなことが出来るか!」  老人はそう言うなり杖を真上に放り投げると、杖がなんと鳩に変身して玉響、上空を飛んでから舞い降りて来て老人の肩に留まった。  当然の如く魂消た小太郎は、立ちどころに平伏した。 「こ、これはこれは神様であらせられましたか、まさか神様がこんなところをお歩きになるとは思いも寄りませんでしたので失礼千万な失言を吐いてしまいまして誠に申し訳ございません。ご無礼をお許しくださいませ!」 「まあ、よい、面を上げよ。」 「ははあ!」小太郎はすっかり恐れ入って面を上げた。 「改めて聞く、何を悩んでおる。」 「はい、神様、実は私は年老いた母と二人暮らしなのでございますが、その母が病に臥せっておりますので毎日、看病して手当てを受けさせているのでございますが、一向に良くならないものですから看病に疲れ、お金に困り、全く首が回らないのでございます。」 「おう、そうか、なら、丁度いい。お前も知っとるだろうが、この冠着山はまたの名を姥捨て山と言い、その昔、お前みたいに病気の婆を抱えて生活に困っとる者が夜更けにこっそり、この山奥まで婆を背おって来て闇から闇に葬るように捨てていったものじゃ、じゃから、お前もそうしたらええがね。」 「ええがねって急に名古屋弁で言われましても、そんなことしたら天罰が下って」と小太郎が言い掛けたところで老人は容喙した。 「わしは天罰なぞ下しはせん。どうせお前の母は余命幾ばくもない。じゃが、お前はまだまだ生きねばならん。じゃから、わしは大目に見てやるのじゃ。」 「し、しかし・・・」 「なんじゃ、母を可哀想に思うのか?」 「はあ・・・」 「しかし、このままだと金がなくなるぞ!」 「はあ・・・」 「そこでじゃ、取引をしようじゃないか!」 「と、取引?」 「そうじゃ、ほれ、この赤い実をじゃな。」と言って老人は懐からマンリョウの実を一つ取り出して、ぽいっと無造作に小太郎に向かって投げると、なんと、その一粒が千両箱十箱になって小太郎の目の前にどっさりと現れたのじゃった。 「どうじゃ、これを欲しくないか?」 「あっ、あの、これは本物のお金が入っているのでございますか?」 「そうじゃ、一つの箱につき千両入っとるぞ。」 「せ、千両!」 「ふふふ、目の色を変えよって、欲しいじゃろ。」 「は、はい!」 「じゃったら母をこの山奥へ捨てに行くのじゃ。わしはこの一万両と共に一晩中ここにおるから、お前が今晩、母を捨てに行くのを見届けたなら帰りにお前にこれを全てくれてやろう。大八車付きでな。わしはお前のためを思って言っておるのじゃ。さあ、どうじゃな。」  小太郎は母に申し訳ない気持ちから暫しの間、逡巡しておったが、こみ上げて来る喜びを堪え切れず、こう答えよった。 「はい、神様の御意に従いたいと存じます。」  という訳で、その晩、小太郎は寝静まった老母をそっと背負って冠着山の山奥まで登って行き、ゴミみたいに捨ててしもうた。  その帰り、満月が異様に光る下で、「うぎゃー!」という老母の悲鳴が大音量で轟いて来たものじゃから小太郎は身の毛がよだちぞっとして恐怖心を吐き出すように、「ひえ~!」と叫びながら慌てふためいて老人の所へ駆けつけた。  そこで小太郎は約束通り老人から一万両をもらい受けると、一転、心強くなって、うはうはもので大八車を引いて行った。  それから一ヶ月も経たない或る晩のこと、小太郎は大金で建てた御殿の閨房で新たに娶った妻と寝ておると、急に息苦しくなって寝床を這い出て、のたうち回り、苦しい苦しいと悶え苦しんだ揚げ句、只々おびえる妻を残して泡を吹きながら死んでしもうた。  小太郎は冠着山で狼に食い殺された老母の怨霊に取り殺されたのじゃった。こうなることを予知していた老人は、怨念を晴らし只の霊魂になった老母の魂と小太郎の魂をほくほく顔で掻っ攫って行った。つまる所、老人は死神の化身じゃったのじゃ。
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