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その昔、関東のさる国の山奥に猟師が住んでいた。
名を馬之助と言って偶に山道で旅人に出会うと、飛び道具の威力に物を言わせ、金品をゆすり取る悪党でもあった。
或る日、馬之助はいつものように猟をしていると、5羽目の兎を捕らえた時、青空にもくもくと黒い雲が湧き立ってきて辺りが俄かに薄暗くなった。
こりゃあ獲物が見づらくなるばかりか驟雨に見舞われるかもしれねえと馬之助が気を揉んでいるところへ剽軽な顔をした男が飄々と現れた。
「おみゃあさん、猟しとりゃあすか。」
何でこんな所に名古屋人が来たんだと馬之助は不思議になりながら答えた。
「ああ。」
「ほだけど、せこいもん獲ってござるね。まっと、でかいもんをあんばよう獲らなあかんがね。」
「今日は偶々小物しかおらんからいかんのだ!わしは腕に覚えがあるんだ、大物がおりゃあ、的がでかいだけに射止めるのは訳ねえことだ!」
「ほうかね、ほんじゃあなも、あの狼を射止めて見せてちょう!」
「何、狼?」
馬之助は名古屋人の指さす方を見ると、薄暗い中に確かに狼のシルエットが浮かび上がったものだから腕が鳴るぜと呟きながら銃を構えた。
すると、狼は銃身の閃光に気づいて咄嗟に逃げ出した。
馬之助は逃げる方へ銃口を向け、照準を合わせた。
「ズドン!」
殷々たる銃声が轟くや、硝煙を突き破った弾丸は見事に命中して狼はぶっ倒れた。即死だった。
「どうだ、見たか!」
「ほほう、てゃしたもんだがや、どえりゃあええ腕だがね。」
「そうだろ、ハッハッハ!」と馬之助は見るからに得意そうに笑った。「おい、お前のお陰もあって大物の狼が獲れた。どうだ、一緒に丸焼きにして食うか!」
「いや、わしは遠慮しとくわ。」
「何でだ?酒も奢ってやるぞ!」
「いや、わしはやらんがね。」
「飲めねえ口か?」
「そうだがね。とろくさいでしょう。」
「ハッハッハ!それじゃあしょうがねえ。」
結局、馬之助は独りで薪で火を焚いて毛を削いで串刺しにした狼を丸焼きにして、それを肴に酒をがぶがぶ煽ることになった。
その煙と匂いを嗅ぎつけて大型の狼がやって来た。
その狼は馬之助に殺された狼とは番いの間柄で雄なのだった。だから怨念と憎悪の籠った形相が物凄く動物が恐れる赤い火がついた薪を掲げる馬之助を物ともせず恐怖のあまり叫喚する馬之助に雄叫びを上げながら猛然と襲い掛かった。
それは獰猛を極め凄惨を極め狂暴を極め残忍を極め、生きたまま馬之助の肉を食いちぎって行き、彼を生殺しにして散々痛めつけ苦しめた挙句、彼の喉笛にがぶりと食いついてとどめを刺した。
強靭な顎を持つ大きな口は、滴り落ちるどす黒い血で染まり、黄なる涙で赤く腫らした鋭い目は真っ黒になるまで焼け焦げた雌狼の残骸に注がれた。
「ワオー!」と咆哮する声は何処までも悲しく響き渡り、その姿は如何にも悲壮感が漂っていた。
この一部始終を崖の上から高みの見物をしていた名古屋人は、大はしゃぎして喜んだ。実はこの男、誰あろう死神の化身だったのだ。
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