井戸と正直者

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 どんより曇った昼下がり、「あーあ、金が無い。金が無い。どうしよう。」と男は呟きながら裏通りをとぼとぼ歩いていると、四辻に差し掛かった時、声をかけられた。 「これ!そこの者!こっちへ来なされ!」  男は立ち止まって声のする方を見ると、共同井戸の隣に老人が立っていた。  亀甲竹の杖を突き、からし色の頭巾を被り、着物もからし色でその上に紫色の羽織を纏い、下は鼠色の野袴を履いていて容色はと言うと白い八字髭と山羊髭を生やしているから宛ら時代劇に登場する水戸黄門のようだ。 「何か用ですか?」と男は聞くと、老人が優しげに微笑みながら手招きするので誘われるが儘、そっちへ向かった。  そうして目の前まで来た男に老人は好々爺よろしくにこにこしながら言った。 「見た所、お前さんは正直者のようじゃな。」 「えっ、へへへ、顔に書いてありますか?」 「うむ。正直の相が出ておる。」 「えっ、へへへ、自分には分かりませんが・・・」 「面と向かって褒められては照れてしまって素直には首肯できんものじゃ。そうじゃろう。」 「ま、そうですね。」 「うむ。お前さんが正直であることに疑う余地はない。しかし、お前さんは報われない。そうじゃろう!」 「ま、言われてみれば、そうですかねえ・・・」 「正直者の頭に神宿るという訳にはいかぬのだな。」 「ま、そんなところです。」 「逆に天罰が下って然るべき者。例えば、心にもない口先だけの言葉を濫用して美辞麗句、綺麗事、阿諛追従、外交辞令を並べ立て空笑いや作り笑顔も駆使して人に気に入られたり人の御機嫌を取ったり人を騙したりして出世する者、或いは口三味線、二枚舌、食言、誣言、詭弁、巧言令色、手練手管、権謀術数を弄して金儲けする者、そういう悪人が罪人にならずのうのうと生き、報われるこの世界は可笑しい。況して正直者が馬鹿を見て正直に正しく生きる者が報われないばかりか損をするのだから猶更この世界は可笑しい。こんな可笑しな世界があるのならまともな世界があっても不思議ではない。そうじゃろう!」  こんなことを長々と言うこの老人は一体、何者なんだと男は訝りつつ、「はあ・・・」と答えるしかなかった。 「どうじゃな。まともな世界に行ってみたくはないか?」 「そりゃあ、まあ・・・」 「そこではお前さんは報われ、金に困ることもなくなるのじゃ。どうじゃな、行きたいじゃろう?」 「はあ、実際にあるのなら。」 「じゃからあるんじゃよ。」 「何処にあるんですか?」 「この井戸に飛び込めば行けるのじゃ!」 「えー!そんなバカな!」 「別にバカなことじゃないよ。わしが見本を見せてやる。」  老人はそう言うと、老人とは思えない身のこなしで井戸の縁にひょいと足をかけるなり本当に飛び込んでしまった。  暫くしてから老人が叫んだ。 「おーい!お前さんも飛び込むのじゃ!」  正に穴の底から響く声だった。  男は井戸の中を覗き込んでみたが、真っ暗で底が全然見えない。 「おーい!大丈夫じゃから飛び込むのじゃ!」 「本当に大丈夫ですか!」 「大丈夫じゃ!現にわしはお前さんがいる所とは別のまともな世界に降り立ったのであってこうして元気にしゃべっておるではないか!」  男は確かに老人が無事で元気そうだと納得すると、この世にいても報われないのも確かなことだから思い切ってまともな世界に行くしかないと眦を決した。で、それこそ清水の舞台から飛び降りる意気込みで井戸の中に飛び込んだ。 すると、男は井戸の底に足から落ちると同時にボキボキグシャグシャバリバリ!と凄まじい音を立てながら下半身の骨が砕け、ボッカーン!と穴の壁に強打した頭の骨も砕け、暗闇の中でひっそりと即死した。 「馬鹿め!まともな世界なぞあろう筈がない。ハッハッハ!」  その笑い声は地獄の底まで響くようだった。  老人は他ならぬ死神の化身だったのだ。  
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