それは日記に綴られる

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それは日記に綴られる

1月3日(現7月初旬) 母なるナイルの河は、昨晩から本格的なシャイト(洪水)が始まったと聞く。 こうなるともう、流域の畑に近づく事は出来ない。 神官が導く暦はやはり正確だと言えよう。それが証拠に、1週間前(現在の10日間に相当)から、人夫の数が増え始めている。皆、農閑期の出稼ぎに来ているのだ。 今日も朝から日差しが強い。ずっと外に居ると頭が焼けそうな気がしてくる。 有り難い太陽神(ラー)の恵みだが、この時期はもう少し控えてくれると良いのだが。 時折、弱い風が足元を漂ってくる。 焼けた砂が舞い上がる住居区画を抜けて、メル(※ピラミッド)の工事現場へと入った。 職人達が仲間ごとに集まって、仕事の始まりを待っている。 キイキイが向こうからやって来て、私に声を掛けてきた。 「よぉ、小役人。元気かい?」 「‥‥ああ、元気だよ。今日は何人来てるんだい?」 笑いながら私が尋ねると。 「そうさね、シャイトが始まったから人数は増えてるよ。今日は35人だ」 そう言って、赤茶けた顔を皺だらけにして笑った。 キイキイは職人の親方だ。 担当官の求めに応じて、石をメルに組み上げる職人を集めている。 こうした親方を、担当官は何人も抱えて作業の指示を出しているのだ。 担当官は職人の数に応じて、夕刻の仕事終わりにパンや酒を配布する。 また、1カ月(30日間)ごとに金粒や銀粒を分け与え、職人たちに報酬として渡している。 無論、抱える職人が多いほど親方の『上前』も多くなるから、大人数での仕事は嬉しい事だろう。 「そうかい。それだけいれば今日はかなり捗るだろうな。担当官のメイヤも一安心だろう。何しろ神官達から完成を急かされているからね」 すると、キイキイが急に真面目な顔をして私に顔を近づけてきた。 「ところで‥‥今は誰が石切りの差配をしているんだ?」 私の仕事は『測量』だ。 メルが正確に積み上げられているか、常に計測して補正する役割を担っている。だから石切りまでは詳しくないが。 「石かい? ハッキリとは聞かなかったが、アスワンの石切場で差配をしているのはアゼルという男のはずだが」 「そうか‥‥やはり『アゼルの石』か」 キイキイが溜息をつく。 「どうしたんだ? 何か不都合が?」 私が尋ねると。 「不都合? ああ、大ありだよ。『石』はメルに持って来てから『その場』で大きさを合わせてるだろ? ウマいヤツが切り出しを差配してると、石の大きさがほぼ同じだし、苦労せずにキューブ(立方体)が出せるんだ」 アスワンの石切場では、その細かい寸法出しまでは行わない。 大まかに切り出して、後は全て『メルの上』でノミを使って形を整える。 「だが、アゼルの石はいけねぇ。あいつはいい加減だから、キューブが出し難い上に『いい具合』に石を整えようとすると削る部分が多すぎて『石が小さくなりすぎる』んだ。 そうなると表面用には使えないからな。結局、骨材として内側に埋めるしかないんで仕事が進まねぇんだよ」 やれやれと言わんばかりに、キイキイが両手を広げる。 「‥‥そうか。すまないね、面倒をかける。どうなるかは分からないが、とりあえず私の方から上に話をしておくよ。何、『早くやれ』って言うのは神官達のご命令だからね。多分、何か考えてくれるさ」 私はそう言ってキイキイの肩をポンと叩き、彼と別れた。 石切場もそうだが、メルを作るには多くの人間が必要で、人手不足は常だ。 (いくさ)の捕虜を用いた事もあるが、所詮は他国の民。メルを作る意義など理解出来るはずもないし、真面目に仕事をしてみたところで何か待遇が変わるわけでもない。 これではやる気も出ないから、仕事は他の力夫の半分も進まなかった。 結局、「与えるパンが勿体無い」という理由ですぐ辞めになった。 そこ此処で、職人達が腰を上げて作業を始める。 今日もまた、メルの一日が始まるのだ。
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