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友達とバイバイし、大好きだった家を離れて、優花は都外行きの電車に乗っていた。
彼女はてっきり新幹線に乗るものだと思っていたのだが、さあ母親に付いて行くと、くぐった改札は普通改札。ホームで待っていたのは特急電車だった。
東京を南下する路線だ。
電車はそびえ立つビル群、にぎやかな住宅街を後ろに置き去りにし、今は土手を擁する川沿いを走っていた。
優花はその景色から、土手に並んでいるのは桜の木かな、と考えた。
もう少し早い時期ならば、満開の桜が見れたのかもしれない。
結局今年の桜を見ることは叶わなかった。
けれども、今の彼女はあのときほど――散った桜を見て落胆し、目前の景色から目を逸らすように逃げ出して、偶然六花とぶつかったときほど、悲しんではいなかった。
少女は自分の手の表側を見下ろした。
――ここはジェルネイルっていうのが主なんだけど、優花ちゃんはまだ小さいし、ジェルは取るのもちょっと大変だから。爪の形を整えるのと、あと一つだけ、おまじないをするね。
優花の手を優しく取って、六花はわざとらしく片眼をつむった。
可愛い少年のウインクだが、優花にとっては王子様の仕草だった。
つやつやした木製の机に向かい合い、六花は優花の爪の形を整える。
その間ずっと、優花の心臓はとくとくと跳ね打っていた。
最後になって、利き手でない左の親指にシールを貼られると、その鼓動はさらに大きくなった。
おまじないの印は花びらが五枚付いた、桜のネイルシールだった。
――数日で自然と取れるようにしちゃうけれど、向こうに行くまでには持つよね。これで優花ちゃんの指には、僕の魔法が宿りました。これでどこに行っても大丈夫。新しいところに着いてからだって、きっと大丈夫だよ。
強くこすると取れてしまうので、優花は右の人差し指で、その爪の面をそっと撫でた。
この街を去る寂しさは、新しいときめきで上塗りしてもらった。
今は二層のそれらは多分、もうすぐ混じり合って、すべてが素敵な思い出になる。未来に踏み出す力になる。
若葉混じりの桜並木はまだ続いていた。
優花は座席の上で体を半分よじると、雑誌に目を落としている母親を横目に、車窓にぺたりと自分の手のひらをくっ付けた。
そうやって桜の付いた親指を外の風景にかざしてみて、あっと息をのんだ。
桜が、咲いた。
花のなかった桜の枝木が、一斉に白い――いや、もっと複雑な色合いの、美しいふくらみを抱えた。かと思うと、それらは風に飛んで、しかし枝には新しい花が付く。
若葉など気にならないほど、花付きははなはだ豊かで、川沿いはすぐに桜のヴェールで覆われた。
咲いては散って、散っては咲いて。
きらきらと、七色の輝きで花びらは開き、風に舞う。
春光にまたたく川面が逆さ絵を描き、優花はそれにも見惚れた。
ここ数日少女が頭に思い描き、夢で見ていた景色よりも、ずっと綺麗な眺めだった。
「お兄ちゃん――やっぱり、春の妖精さんだった」
車内にいた他の乗客たちが外の様子に気付き、ざわざわし始めた。
優花の背後で母親が、
「うわぁ。なんだろう、優花、すごいね」
と驚いたように言った。
優花は自分でも気付かないうちに泣いていたので、鼻を小さくすすり、うんと答えて、また泣いた。これは悲しい涙じゃなかった。
桜爛漫。少女の胸をいっぱいに染めたのは、優しさで花開く、温かい雪の桜だった。
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