兄・春苑惟人の帰国

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 雨季前の暑さのせいか、春過ぎの気分転換か、その日は涼やかなカラーがよく出る一日だった。  薄水、淡い紫、黄緑色。涼やかな色合いは紫陽花と同じで、紫陽花をデザインしたネイルもまた、今年初めてオーダーが入った。  何度も移動させては悪いので、紬の兄とは仕事の後、紬たちの住む家の最寄駅で待ち合わせた。  午後八時に改札の前。前日に電話でそう伝え、十分前にその場所に着くと、兄はすでに到着していた。  潔い白シャツに紺のチノパンツ、頑丈そうな黒いスニーカー。大型のスーツケースをわきにバックパックを背負う春苑惟人(これひと)は、険しい顔つきで駅の広告を眺めている。 「お兄ちゃん。久しぶり」  後ろに耀たちを立たせ、紬はそろそろと声をかけた。一緒に、彼が見ていた広告の文字に目を配った。美術展の案内だ。 「紬」  妹が来たのに気付くと、惟人は壁と睨めっこするのをやめ、やんわりと笑った。  変わらない銀縁眼鏡の奥で、優しい双眸が紬を捉える。 「元気だったか」 「……うん。お兄ちゃんこそ、元気?」  会えて嬉しい反面、紬は緊張した。惟人の目の動静が気になって、普段よりも声が出ない。  後ろの三人を、今の兄はどう見るのだろう。  そもそも、見るつもりでいるのだろうか?  好きな兄との久しぶりの再会だというのに、紬の頭を占めてしまったのはこれだった。  帰り道、兄妹はよく話をしたが、九十九は一度も言葉を発さなかった。
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