兄・春苑惟人の帰国

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 紬より八つ年上、今年で三十歳になる惟人は、世界中を旅する絵描きである。  地球のあちこちを赴いては、そこで創作活動をして、しばらくすると場所を移す。表立って作品を売っているわけではないが、職業を書く欄があったらとりあえず画家と書く。  そんな兄がどうやって生計を立てているのか、紬は知らない。 「この骨董の霊鎮めを頼みたい」  チベットから帰国したという惟人は、そう言って縦長の包みと代金を差し出した。  二人きりでの夕食後、場所を骨董部屋に移してのことだった。  別で食事を取った九十九たちもそこにはいて、紬は彼らに見守られながら、仕事の中で兄と相対していた。 「お金、大きすぎない?」 「(じか)に見れば納得する」  厚みで金額がわかるほど、紬は札束を見慣れていない。けれど、霊鎮めの仕事にしては大きい額だと思った。  お金の出所が気になるが、後々話に出るだろうから聞きはしない。  妹の冴えた目を見て、惟人は一つうなずいた。 「お前に余計な警告は不要だな。……包みを開けるぞ」  と言い、彼は丁重に布包みをほどく。 「作られたのは十一世紀。作者は不明で、祭祀用だ」 「……今までは大丈夫だったの」 「穏やかでない噂はあったらしい。俺にこれを託したのは、早世した前の持ち主の親戚だ」  紬は固い表情をほぐそうと、人差し指で自分の眉間をぐりぐりと押した。  中身を知っていた惟人を含め、部屋にいる全員が難しい顔をしている。  大きさは両の手のひらに乗るほど。惟人が持参した木彫りの像は、姿をそのままに荒ぶっていた。  澱んだ気の発散先を探すように、見えない手が周囲へと伸びている。  長く見つめていると飲み込まれてしまいそうだ。  紬が目線を上げると、ちょうど惟人と目が合った。膝をつき合わせているのだから当然だ。  数秒の沈黙後、小箪笥の方から声がした。 「向こうにだって、陰陽師みたいなまじない師がいるんじゃないの?」  本体の上に腰掛ける六花の、静寂を気にかけての質問だった。  投げかけた先は無論、惟人。  惟人は一度は六花に答えようとした。が、不自然に言葉が出なかった。  彼は小箪笥から目をそらして、早口でこう語った。 「俺がいたところはチベットの山村でな。この像は、そこで信仰されている土着神を模しているんだ。向こうのまじない師曰く、こういう神宝(しんぽう)に自分たちがまじないを加えるのは、恐れ多いのだと」  惟人の目は誰でもなく、畳の上に向いている。 「ありのままに置いておくというのも一つの信仰なのだろう。だがな、依頼人はこのままこの像を放置して、人に危害を加えるような物となればそれこそ神の望むことではないと言った」  もう危害を加えているけれど、そうとは言えないんだな。  紬はそのように解釈しながら、 「同じ神様を崇めていても、それぞれの考え方があるのね」  と惟人に合わせた。 「ああ。向こうでは見つからなかったから、これの信奉者でない術者はいないかと聞かれたんだ。恩人だったし、断らなかったよ。……現地の金と一緒に受け取ったときは、まだ祖父(じい)様が現役だと思っていたから」 「それは気にしないで、私にもできるもの。ただ、私たちがこれに手を施して、その信者の人たちに罰当たりって怒られたりしない?」 「その点は問題ないと彼女は言った」  恩人って女性なんだ。紬は少しかしこまる気持ちで兄を見た。  しまった目鼻立ちで、神経質そうな顔とも形容されるが、身内のひいき目を抜きにしても格好良い。  ずっと女っ気がない人だと思っていたけれど、今はどうなのだろう。  兄と離れていた三年の空白を、紬はこのとき初めて実感した。  ただ、その空白は寂しさを感じさせるものではなく、紬にとっては期待が生まれる余地といえた。  あの兄が、恩人のためとはいえ骨董を自ら抱えてきた。  九十九の力に頼ろうと、こうして今六花たちに囲まれて座っている。  そう思うと紬は嬉しくなった。  おのずと心が浮かれたが、しかしそれも束の間のことで、 「お兄ちゃんの頼みだもの。もちろんやるよ」 「ありがとう」 「少し時間がかかるかもしれないけど、大丈夫?」 「待つよ。使い潰したら悪いしな」 「使い潰すって……」 「語弊はないだろう。お前が使っているこれらを消耗させては、申し訳ない」  と、惟人は顎で九十九たちを指した。 「……そっか」  出かかった溜息を、紬は途中で飲み込んだ。心が冷めていくのが自分でもわかる。  変わっていないんだ、兄の九十九嫌いは。 「頼む側の言葉じゃないよ」 「頼むのは紬にだ。ただの物に頼む必要はないだろう」  期待した自分のせい。  それでも、兄の棘のような態度が痛かった。九十九はこれを常に向けられているのだと思うと、紬はまして苦しくなった。 「私は、九十九はパートナーだと思って仕事してる」 「まだ夢を見てるのか。成人は過ぎたと思っていたが、年を数え間違ったかな」 「……なんでそんなこと言うの」  二年前に兄から届いた成人祝いの品が、紬の頭に浮かんで消えた。  代わりに脳裏をよぎったのは、今日の夕飯だった。  先ほど兄妹で食べたご飯は、今日の食事担当だった耀が作ったものなのだ。二人の久しぶりの再会を考えてか、いつもより少し豪華で、それが紬には嬉しくて。  ねぇお兄ちゃん。  あんなにぱくついておきながら、よくそんなことが言えるよね。 「――怒った」  紬はぐんっと立ち上がると、惟人を強く見下ろした。 「お兄ちゃんが三人にちゃんと頼むまで、霊鎮めはしません」  驚いた顔でこちらを仰ぐ兄に、きっぱりと紬は告げる。 「この神像が危なくなったって、放置するから。丁寧に、敬意を持って、三人に、お願いしてよね」  念押しし、紬はきびすを返して部屋を出た。  蒸し暑い廊下。彼女はその息苦しい空気をまとめて吹き飛ばすように、ふうっと大きく息を吐いた。
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