兄・春苑惟人の帰国

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 秋が連れて来た場所は、広縁から障子戸を一枚隔てた和室だった。  隅っこの、床の間の近くが壁になっていて、そこに六花が隠れるように立っている。  広縁側から見えないように秋から六花にリレーされた紬は、「しー」と人差し指を唇に当てる六花の隣で、しばらく気配を殺すことになった。  障子戸は閉まっているが、草木のさざめきが大きい。初夏らしい虫の声もする。  広縁のガラス窓を開けているのだ。 「あいつが意匠作りに長けているのは、兄譲りか」  耀の声だった。  合わせて風が止み、虫の声が消え、するとそれらに埋もれていた、ペンの走る音が残った。 「こんなに嫌われて……受け取ってくれるだろうか」 「さぁな」  耀は紬にするのと同じ調子で、惟人の投げかけに簡単に答えた。 「俺はお前の考えが間違いだとは思わない」  ペンの音が止まぬ中、耀は言う。 「俺たちは物だ」  二人の会話を、紬は驚きながら聞いていた。  こんなに普通に話している二人は、紬が知る限り初めてだ。  惟人がぽつぽつと言った。 「小学校の高学年か、中学生に上がってすぐか……いつだったかな。ある時期から、お前たちを受け入れられなくなった」  それで、ああそうか、と紬は納得した。  自分が行く前も、兄はずっと祖父の家で暮らしていて。  私よりも付き合いが長い……いいや、古いんだ。 「九十九は、人より長く生きる存在だろう。少なくとも、俺一人の人生には余る。余ってしまう」  耀は何も言わない。沈黙し、続きを促す。 「俺はいつか皆を置いていく。自分だけ先に消える。……寂しいよ。残るお前たちが、妬ましいよ」  惟人の恨み節は、みなに届いていた。  耀にも、六花にも、秋にも。  紬は静かに息を潜め、それを聞く彼らをあずかり知った。 「俺は。九十九でない自分が嫌で、そんなことを思う自分が怖くなったんだ」  そう言って、はぁ、と惟人は息をついた。 「子どもの頃に考えたことだ、さすがに今もこのままじゃない。けど――同じではいられないから、九十九は嫌いだ」  ペンの動きが止まり、今度は夜風が音を立てた。  ざわざわ、と草木の揺れが耳をかすめる中で、紬はそっとまぶたを閉じた。 (どうしてお兄ちゃんは絵を描くの?) (祖父(じい)様の家に置いてあるような、古い絵が好きなんだ。長い間みんなに見られて、愛され続けて。俺はそんな絵を描いて、未来に残したいんだよ)  本当に幼い頃――紬が祖父の家に入る前の会話だ。  あのときはどうだったのだろう。  九十九は嫌いだった?  九十九が宿る骨董は触りたくなかった?  少なくとも、兄は今も絵を描いている。  九十九が嫌いなのに、それが宿るような絵を目指している。  それって、本当に九十九のことが嫌いなのだろうか。 「紬が祖父様の仕事を継いだのも」  はっとして、紬は目を開けた。 「俺が負わせた役目だって、わかってるよ。自分には重かった。重かったから、紬には距離を保てと言ってやりたかったのに。大事にしているものをけなされたら、誰だって怒るよな」  そうだよ。と思いながらも、紬は切なさで胸がいっぱいだった。 「何代にもわたって大切にされるから、九十九は生きていられる」  耀の落ち着いた声音が、辺りを伝った。 「俺たちは紛れもなく物だが、そのありがたさがわからないわけじゃない」  普段はしない話に、紬は彼の方を覗きたくなった。  首を少し回すと、面白そうに微笑する六花と目が合った。 「俺がこうしているうちは、紬のことは支えると決めている。俺たちを認めなくてもいい。だが、紬の気持ちは汲んで欲しい」  撤回。やっぱりこれは覗けないやつだ。 「あいつは俺たちが思っている以上に賢いし、強いよ」  紬は恥ずかしくなって、六花からも目をそらした。  耳が熱い。  紬の横で、六花はますます楽しそうに笑みを深めている。 「紬にすっかり懐いたな」  惟人の言葉と一緒に、カタンと窓が鳴った。 「なぁ耀。俺がここに入り浸ってたら、何も進まないだろ。六花と秋津丸を呼んでくれ」  それを聞いて、六花がそろりと足を踏み出した。  やや離れた場所にいた秋が出口を確保し、三人が抜き足差し足で下がっていく裏で、 「あと紬もか。あいつは自分の目で見ないと、許してくれなさそうだ」  と惟人は笑いながらこぼした。  すぐに窓が閉まり、外の音は遥かへ、春苑家では二人と三つの語らいが始まった。
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